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業績も半端ではありませんね! (yukariko)
2011-01-22 14:55:40
その人の評価は『棺を蓋いて事定まる』といいますが、文覚の業績も大したものですね。
全く知らなかったので、今回読んでとても見直しました。
頼朝の決起を促した事をおいても、法皇に願って荘園の寄進を受け神護寺の再興、そして東寺・西寺・高野大塔などの復興にも尽力…一ヶ寺だけでも凄い事なのに破天荒なスケールですね。

でもその実行力が贔屓にしてくれた法皇や頼朝亡き後は『何をするか分からない男』として警戒され、政争に加担したと疑われた挙句、何度かの流罪の途中亡くなったとは、僧として名をなした後の行い澄ましたお坊さんの最後とは思えないですね。

TOPの醍醐寺「五大力さん」の画像を見て??だったのですが、説明の「今若が出家した」を読んで納得!彼もまた後で出てくるでしょうから。
 
 
 
強烈な個性と実行力のもち主です (sakura)
2011-01-23 16:17:32
文覚は出家した後、荒行を重ねる中で空海に出会い
熱心な大師信仰をもちます。
神護寺の復興に情熱をもやす文覚は目標達成のためには強引で時には詐欺とも思われる方法を使いながら
納涼殿を建て、弘法大師の御影を祀り不動堂を再建します。
しかし神護寺の規模はあまりにも大きく個人の力では
それ以上の復興は無理だったため、法住寺殿に押しかけ後白河法皇に寄進を迫ったというわけです。
後白河法皇、頼朝により神護寺に次々と荘園が寄進されると、文覚の周辺にいる仏師、絵師、大工に号令し空海にゆかりの深い寺の修繕をしていきます。
しかし文覚は権力と富を手にしても決してそれを私物化せず、酒は呑まず、肉食妻帯もしないでその私生活は極めて質素なものでした。
頼朝と後白河法皇の間を歩きまわり己の信ずるままに生きた文覚も三度の流罪の刑を受けたとき、すでに65歳だったといいますから、配流地での生活も長くはもたなかったようです。
幸い文覚はよい弟子に恵まれ、弟子には上覚のほかに高山寺を再興した明恵がいます。
その後の神護寺は弟子たちによって守られ京都の高雄
に今日なお大寺として残ることができたのは文覚のお陰です。
醍醐寺を抜け出した今若(全成)は治承4年10月1日頼朝のもとに駆けつけます。

 
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