平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
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文覚上人の墓 (神護寺)
京都市
/
2011-01-20
神護寺は、洛西高雄山の山腹にある紅葉の名所です。バス停「高雄」から
清滝川に架かる橋を渡ると、自然石の石段の向こうに神護寺の楼門が現われます。
神護寺は最初、この地に高雄山寺があったのを、和気清麻呂が
延暦年間(782―806)
復興し氏寺にしました。
中国から帰国した空海が
14年間住持し、
最澄・和気真綱・仲世らに灌頂をおこなったことから
寺は平安新仏教の
道場となって栄え、寺名も神護寺と改めました。
金堂の石段から毘沙門堂・五大堂をのぞむ
空海とその弟子真済(しんぜい)を中心に整備された神護寺も二度の
火災によって
衰退の一途を辿り、ほとんど廃墟となったこの寺に
仁安三年(1168)、空海を崇拝する文覚がその遺跡を慕ってやってきました。
文覚はこの寺を修復しようと勧進帳をささげて、方々で寄附を集めて
歩きましたが
思うようにはかどりません。
ある日、文覚は後白河法皇の御所
法住寺殿を訪れ、
大音声で勧進帳を読み上げます。
ちょうど御前では太政大臣師長が琵琶をかきならし、
大納言資賢は拍子をとって
風俗・催馬楽を詠い管弦の遊びが盛り上がっている
最中でした。
文覚は退出を命じられても退かず左手に勧進帳を右手に刀を持って
大暴れしたため、北面の武士によって捕らえられ伊豆に流されることになりました。
当時の伊豆の知行国主は源頼政、国守はその嫡男の仲綱です。
『源平盛衰記』には「仲綱は渡辺党の渡辺省(はぶく)に命じて、文覚護送の
用意を
整えさせます。文覚を乗せた舟は下鳥羽より淀川を下り渡辺津に上陸し、
ここに4、5日
逗留してから、海路をとり由良の湊・田辺の沖・新宮の浦に船を着けます。
そして熊野山を伏し拝み、
熊野灘から伊豆に向った。」と書かれています。
『中世の大阪』には、文覚を頼政に預け仲綱の監視のもと、
配流の地を伊豆としたことについて「誰かの、何らかの意思が働いていたと
考えられるのではないか。」とあり、後白河法皇の存在をにおわせています。
伊豆に流された文覚は源頼朝に会い挙兵を勧めた後、
福原に下り
藤原光能を介して後白河法皇から平家追討の院宣を手に入れました。
頼朝と後白河法皇のかけ橋となって頼朝の挙兵の決意を促したのは
実は文覚だったのだと『平家物語』は語っています。
治承4年(
1180
)頼朝の挙兵が成功した後、文覚は寿永元年
(1182)
11月、
後白河法皇が蓮華王院に御幸の際、改めて神護寺再興のための
荘園寄進を願い出て許されています。さらに頼朝からも寄進をうけ、
神護寺の再興が軌道にのると、次に文覚は空海ゆかりの深い
東寺・西寺・高野大塔などの復興にも尽力しました。
源平の戦乱後の残党狩りで、平家の血を引く多くの子供達が
殺されるのを見た文覚は、平維盛の嫡男六代の助命を頼朝に願い出ます。
しかし頼朝は頑として許しませんでした。
再三懇願され、とうとう根負けした頼朝が渋々承諾することになりました。
頼朝は昔自分が清盛に許されて平家を滅ぼしただけに平家嫡流で
重盛の孫にあたる六代の将来を考えると不安であったに違いありません。
六代の成長とともに頼朝は「文覚は六代が謀反を起こさば
味方しかねない聖の御房なり。」とひそかに側近に囁いていたといいます。
頼朝の謀反を助けた文覚が今度は六代の謀反を助けるのではないかという疑惑です。
頼朝が亡くなると文覚の立場は悪化し、さまざまな政争に巻き込まれて
佐渡に流罪となり、六代は文覚が配流中に殺されました。
許されて佐渡から都に帰ったほぼ1年後、再び罪を問われて対馬に流されます。
その途上の鎮西で、文覚は数名の弟子に看とられながら波乱にみちた生涯を閉じました。
その後、神護寺は文覚の弟子上覚によって引き継がれ鎌倉時代に諸堂が完成し、
文覚の遺骨は上覚によって持ち帰られ遺言により高雄山頂に祀られています。
神護寺の楼門を入った境内参道の右手に和気公霊廟があります。
和気清麻呂の廟所
その山手(北)に鐘楼があり、鐘楼横から細い山道をのぼると
文覚上人の墓があります。
文覚は「神護寺の山の京都の町がよく見下ろせるところに
遺骨を置け」と遺言したと伝えられています。
文覚の墓の傍には後深草天皇の皇子で
仁和寺門跡となった性仁(しょうにん)法親王が祀られています。
性仁法親王は神護寺に入り、神護寺の興隆に尽しました。
その五輪塔は文覚上人に対する敬慕の念から文覚の五輪塔より
一回り小さく造られたといわれています。
「神護寺略記」によれば神護寺には藤原隆信が描いた後白河法皇・
源頼朝・平重盛・藤原光能(みつよし)・平業房(なりふさ)の肖像画が
かけられていたという。そのうち神護寺に今残っている国宝三幅は源頼朝、
平重盛、そして姉妹が以仁王の妾であり後白河法皇院宣に一役かった
藤原光能の像と考えられています。
文覚の滝 (飛瀧神社)
文覚寺
萱の御所(文覚と頼朝)
恋塚寺(文覚と袈裟御前)
恋塚浄禅寺(文覚と袈裟御前)
文覚牢跡(文覚町・高雄町・紅葉町)
文覚上人屋敷跡(頼朝が帰依した怪僧)
『アクセス』
「神護寺」京都市右京区梅ヶ畑高雄町
JR京都駅、地下鉄烏丸線京都駅からJRバス「高雄・京北線」で約50分、「山城高雄」下車、徒歩約20分
阪急京都線烏丸駅、地下鉄烏丸線四条駅から市バス8号系統で約45分、「高雄」下車、徒歩約20分
バス停から朱塗りの高雄橋を渡り、そこから坂を上ると
やがて神護寺の高い石段が見えます。
「文覚上人の墓」(鐘楼横から約20分)
鐘楼横の左側から西北へ、途中に「←文覚上人墓 5分」の木製の道しるべがあります。
「和気清麻呂の墓」鐘楼横の右手から北へ300mほど上ったところに祀られています。
『参考資料』
加地宏江・中原俊章「中世の大阪」松籟社 新定「源平盛衰記」(第二巻)新人物往来社
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 梅原猛「京都発見」(7)新潮社
山田昭全「平家物語の人びと」新人物往来社 「神護寺・高山寺」小学館
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「京都名所図会」(洛西)俊々堂
森浩一「京都の歴史を足元からさぐる」(嵯峨・嵐山・花園・松尾の巻)学生社
コメント (
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醍醐寺五大力さん
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コメント
業績も半端ではありませんね!
(
yukariko
)
2011-01-22 14:55:40
その人の評価は『棺を蓋いて事定まる』といいますが、文覚の業績も大したものですね。
全く知らなかったので、今回読んでとても見直しました。
頼朝の決起を促した事をおいても、法皇に願って荘園の寄進を受け神護寺の再興、そして東寺・西寺・高野大塔などの復興にも尽力…一ヶ寺だけでも凄い事なのに破天荒なスケールですね。
でもその実行力が贔屓にしてくれた法皇や頼朝亡き後は『何をするか分からない男』として警戒され、政争に加担したと疑われた挙句、何度かの流罪の途中亡くなったとは、僧として名をなした後の行い澄ましたお坊さんの最後とは思えないですね。
TOPの醍醐寺「五大力さん」の画像を見て??だったのですが、説明の「今若が出家した」を読んで納得!彼もまた後で出てくるでしょうから。
強烈な個性と実行力のもち主です
(
sakura
)
2011-01-23 16:17:32
文覚は出家した後、荒行を重ねる中で空海に出会い
熱心な大師信仰をもちます。
神護寺の復興に情熱をもやす文覚は目標達成のためには強引で時には詐欺とも思われる方法を使いながら
納涼殿を建て、弘法大師の御影を祀り不動堂を再建します。
しかし神護寺の規模はあまりにも大きく個人の力では
それ以上の復興は無理だったため、法住寺殿に押しかけ後白河法皇に寄進を迫ったというわけです。
後白河法皇、頼朝により神護寺に次々と荘園が寄進されると、文覚の周辺にいる仏師、絵師、大工に号令し空海にゆかりの深い寺の修繕をしていきます。
しかし文覚は権力と富を手にしても決してそれを私物化せず、酒は呑まず、肉食妻帯もしないでその私生活は極めて質素なものでした。
頼朝と後白河法皇の間を歩きまわり己の信ずるままに生きた文覚も三度の流罪の刑を受けたとき、すでに65歳だったといいますから、配流地での生活も長くはもたなかったようです。
幸い文覚はよい弟子に恵まれ、弟子には上覚のほかに高山寺を再興した明恵がいます。
その後の神護寺は弟子たちによって守られ京都の高雄
に今日なお大寺として残ることができたのは文覚のお陰です。
醍醐寺を抜け出した今若(全成)は治承4年10月1日頼朝のもとに駆けつけます。
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全く知らなかったので、今回読んでとても見直しました。
頼朝の決起を促した事をおいても、法皇に願って荘園の寄進を受け神護寺の再興、そして東寺・西寺・高野大塔などの復興にも尽力…一ヶ寺だけでも凄い事なのに破天荒なスケールですね。
でもその実行力が贔屓にしてくれた法皇や頼朝亡き後は『何をするか分からない男』として警戒され、政争に加担したと疑われた挙句、何度かの流罪の途中亡くなったとは、僧として名をなした後の行い澄ましたお坊さんの最後とは思えないですね。
TOPの醍醐寺「五大力さん」の画像を見て??だったのですが、説明の「今若が出家した」を読んで納得!彼もまた後で出てくるでしょうから。
熱心な大師信仰をもちます。
神護寺の復興に情熱をもやす文覚は目標達成のためには強引で時には詐欺とも思われる方法を使いながら
納涼殿を建て、弘法大師の御影を祀り不動堂を再建します。
しかし神護寺の規模はあまりにも大きく個人の力では
それ以上の復興は無理だったため、法住寺殿に押しかけ後白河法皇に寄進を迫ったというわけです。
後白河法皇、頼朝により神護寺に次々と荘園が寄進されると、文覚の周辺にいる仏師、絵師、大工に号令し空海にゆかりの深い寺の修繕をしていきます。
しかし文覚は権力と富を手にしても決してそれを私物化せず、酒は呑まず、肉食妻帯もしないでその私生活は極めて質素なものでした。
頼朝と後白河法皇の間を歩きまわり己の信ずるままに生きた文覚も三度の流罪の刑を受けたとき、すでに65歳だったといいますから、配流地での生活も長くはもたなかったようです。
幸い文覚はよい弟子に恵まれ、弟子には上覚のほかに高山寺を再興した明恵がいます。
その後の神護寺は弟子たちによって守られ京都の高雄
に今日なお大寺として残ることができたのは文覚のお陰です。
醍醐寺を抜け出した今若(全成)は治承4年10月1日頼朝のもとに駆けつけます。