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交通の要衝を支配下に置けば勢力も拡大しますね。 (yukariko)
2011-01-15 00:31:14
京の都から熊野詣をするとしたら…今の交通を頭に思い浮かべて奈良を経由して吉野から川伝いに南下して行くのかと勝手に思っていましたが、それだと峻嶮な山越えになるから大変すぎますね。

まずは草津から淀川を下り、渡辺の津に上陸して四天王寺→住吉神社→熊野と大廻りのようでも平地を歩いて長い日数をかけて参拝したのですね。
それにしても昔の人はとても健脚!

交通の要衝で物流の拠点を本拠地として支配した渡辺党は武力と資金力も豊かだったでしょうから都の貴族も配下として当てにしたでしょうね。
一族は弓矢の名手が多い以外に、交渉事も上手だった?
四天王寺の執行など事務方のTOPも勤めた一族なら算用・交渉が得意だったのでしょうし、蛮勇一途ではないのも貴族たちには当てにされたかも。

貴族と結びつき、力のあった渡辺党も時代の波に埋没し、源氏や北条氏の家臣となって違う土地に移住したりしていつしか弱体化したのですか?

京も秀吉の政策で京極に寺が集められたり移転させられた名残で、お寺がもう無いのに町名が「元誓願寺」などと付いていたりしますね。

大阪も石山本願寺が立ち退いた後、権力者となった秀吉の権力の象徴として作った大阪築城の余波を被って、幾つものお宮やお寺が本来鎮座していた場所から移転させられたのでしょうね。

歴史を勉強される方にとっては、迷惑で手間の掛かる事でしすね。
 
 
 
渡辺党の活躍は南北朝時代まで続きます (sakura)
2011-01-15 16:31:11
貴族と結びつき、力のあった渡辺党も時代の波に埋没し、源氏や北条氏の家臣となって違う土地に移住したりしていつしか弱体化したのですか?

鎌倉時代、遠藤姓渡辺氏・中でも文覚の系譜が当初より鎌倉幕府と結びつきが強く頼朝や北条氏の近臣であったと同時に渡辺津の管理(関料もとっていたことが史料にみえています)や京都警固にも活動しています。
これに対してこの時代閉塞していた源姓渡辺氏の多くが南北朝時代になると南朝方につき後醍醐天皇に仕えた渡辺照が難波荘(難波)の地頭職に任命されていたことや南北朝時代には孤島であった梅田曽根崎を開発したのは遠藤氏であると伝えられています。
同じ時代都島に渡辺党が所領をもっていたことなど大阪における渡辺党の足跡は平安時代から南北朝期まで辿ることができます。
現在の梅田界隈や難波が開発されるのは明治時代になってからのことですが、もとを辿れば南北朝期に渡辺党が関わっていた土地だったのです。

織田信長が畿内を統一しようと義昭を擁立し上洛すると、松永久秀・三好義継は降伏、三好三人衆は阿波に逃れます。やがて義昭と信長の不和が表面化すると信長に反感をもっていた本願寺は石山に軍勢を集め、ここに松永久秀・三好義継も加わります。
反信長勢力の中心として義昭は近江浅井・越前朝倉氏・毛利氏などとも連絡をとり信長は包囲され窮地に陥りますが、次々と反対勢力の浅井・朝倉氏を倒し三好義継を殺します。この時、三好義継に従っていた渡辺党の渡辺吉も自害します。
やがて本願寺は信長の講和策を受け入れ顕如は大阪を去ります。
こうして摂津を掌握した信長も明智光秀の謀反に倒れ、その後は秀吉に受け継がれます。秀吉が大阪城を築城する頃には渡辺氏は大阪を去り奈良に移ります。
 
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