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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






天養元年(1144)に湯浅宗重が一族の守護神として創建した顕国神社は、
江戸時代には、湯浅・別所・青木・山田の四ヵ村の
産土神として人々の信仰を集めました。
祭神は、大己貴命(オホナムチノミコト)・須佐男命(スサノオノミコト)、
櫛名田姫命(クシナダヒメノミコト)・建御名方命(タケミナカタノカミノミコト)、
沼川姫命(ヌナカワヒメノミコトです。


延暦20年(801)、坂上田村麻呂が紀伊國有田郡霧崎菖蒲の里(湯浅町田)に
大国主大明神と称して祀り、
湯浅宗重がそれを現在地に勧請したのが
顕国(けんこく)神社の始まりと伝えています。

もと
国主(くにし)神社といいましたが、
紀州徳川家初代藩主頼宣が顕国大明神の社号を贈り、
藩儒学者の李梅渓に鳥居の扁額を書かせました。
頼宣が江戸往来の度に参拝するなど篤く崇敬したのが先例となり、
歴代藩主も篤い信仰を寄せています。
社域・社殿ともに広大であることから一般に「大宮さん」と呼ばれ、
10月18日に行われる例大祭は、昔、田中九郎助が馬を
社前に集めて流鏑馬をしたのが始まりといわれています。


大鳥居傍の手水鉢は、長さ1間(約1.818m)あり、
「在関東上総国 御宿浦 天王台 六軒町
 岩和田 岩船浦」と彫られています。
寛延元年(1748)9月、関東在住の湯浅村出身の漁民たちが氏神の
加護を祈願して奉納したものと思われます。(湯浅町指定文化財)


江戸時代になると、大型の鰯網が開発され、湯浅浦から
多くの漁民が関東や瀬戸内・九州などの漁場に進出しました。
栖原(すはら)角兵衛のように江戸の繁栄を見越して
房総に漁場を開き、のち北海道の漁場を開発して
成功する
者も現れました。

大門

拝殿

広々とした社域、拝殿背後の本殿は木々にうもれています。

大門と絵馬堂

 熊野古道の宿場町として栄えた湯浅は、醤油の醸造発祥の地です。
鎌倉時代に紀州由良の法燈国師( ほうとうこくし )が宋で禅を
学ぶかたわら、金山寺味噌の醸造方法を習って帰国しました。
まもなく湯浅にもその製法が広まり、
味噌造りをするうちに味噌桶に溜まる赤褐色の汁に
工夫をしてできたのが醤油といわれています。

江戸時代には徳川御三家紀州藩の手厚い保護を受けて
販路を拡大し、最盛時には醸造業者数100軒に達しました。
またこの時代には、漁場を開拓するために
多くの湯浅漁民が房総半島に移住し、醤油の醸造方法を伝え、
日本各地にその方法が広まりました。
しかし明治以後は徐々に斜陽化し、
今では町内に数件の醸造元があるだけですが、
工場で大量生産される醤油でなく、吉野杉樽で1年かけて
じっくり仕込む伝統的な製造方法が受け継がれています。


国道42号線沿いには、天保12年(1841)創業の醤油醸造の老舗
角長(かどちょう)国道店があります。 (有田郡湯浅町別所147)
『アクセス』
「顕国神社」 和歌山県有田郡湯浅町大字湯浅1914
JR湯浅駅から徒歩約20分
『参考資料』

「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 
県史「和歌山県の歴史」山川出版社

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
湯浅氏自体は衰退しても…その血を引く住民は (yukariko)
2015-03-06 22:30:23
産土神として勧請され、以後城主は滅んでもその土地の住民に広く尊崇されている宗教勢力(当然神仏混淆でしょうから)は上手に使う方が勝ちですね。
江戸初期にこの紀州を所領とされ駿府から国替えをした初代藩主徳川頼宣とその家臣群にとっても反抗しない勢力には上手に飴を舐めさせて治めて行ったのでしょうね。
沿岸のみの漁業ではなく遠く房総半島までも進出する進取の気概に富んだ湯浅衆は藩の振興策で醸造業なども発展させ、全国に「湯浅」一族のいさおしを現代までも受けつぎ、広めているのでしょうか?
 
 
 
施無畏寺の再建 (sakura)
2015-03-07 11:13:24
徳川頼宣は明恵上人(湯浅宗重の孫)の施無畏(せむい)寺も再建しています。
湯浅では明恵上人は特別な存在のようで、城跡を案内して下さった
ボランティアの方は何度も施無畏寺と明恵の名を口にされていました。
この寺は明恵の従兄弟の湯浅景基が創建し明恵に寄進したもので、
室町初期には壮大な伽藍を誇っていましたが、その後、兵火で伽藍を失い衰微していました。

頼宣は駿府城から和歌山城へ移された時、かなり不満を持ちながらも、
仕方なく命令に従ったようですが、和歌山城の修築、城下町の整備、
紀ノ川の堤防の改修など、紀州藩繁栄の基礎を築いています。

江戸時代には、「醤油の醸造、遠隔漁業などで財をなした豪商が湯浅には軒を連ね、
さらに湯浅の海辺を埋立てて新地を開いた」と『続風土記』にあります。
栖原角兵衛は房総半島だけでなく遠く樺太・千島にまで進出し、
北方の開拓にも活躍しています。現在、角兵衛屋敷は国登録文化財に指定されています。
またその近くには、幕末の志士菊池海荘邸跡もあります。
 
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