平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



屋島の合戦で義経に追い落とされ海上に逃亡した平氏は、
長門国彦島(山口県下関市)に集結し、いよいよ最終決戦に
挑むことになりました。一方、源氏軍は瀬戸内海の水軍に続き、
熊野水軍をも味方に引き入れることに成功し、
『平家物語』によると、元暦2年(1185)3月、
三千艘の大水軍が周防大島(山口県の南東部)に到着しました。

平氏の背後には範頼に従った三浦義澄が、北九州には範頼軍がいます。
東からは義経軍が迫り、彦島の平氏は完全に包囲され、
土壇場に追い込まれていきました。

熊野水軍の裏切りは平氏にとって大きな痛手となりました。
源氏・平氏双方より助力を請われた湛増は、
平家に重恩のある身でありながら、急に心変わりして迷い、
熊野権現に神意を占うと、源氏に味方せよとの託宣を受けた。
なおも疑って、紅白それぞれ7羽の鶏を戦わせ
白い鶏が勝ったので、神託にまちがいなしというわけで、
源氏につくことになった。占いをするまで湛増は、源平どちらに
味方すべきか迷っていたと『平家物語』は語っています。

湛増は始めから負け戦の平家を見限って源氏に味方すると
決めていました。しかし、揺れ動く熊野の人々を納得させるために、
わざわざこのような面倒な儀式をおこなったと思われます。

二千人余の兵を二百艘余の兵船に乗りこませ、壇ノ浦に
湛増が姿を現しました。この時、若王子(熊野十二所権現のひとつ)の
御神体を船に乗せ、旗には熊野権現の守護神・金剛童子が
描かれていたため、源氏も平家も伏し拝んだという。
両軍ともこの船団が敵か味方かと固唾を呑んで見守っていましたが、
源氏についたとわかると平家はたちまち興ざめして士気を失いました。

無類の強さを誇る熊野水軍は、源平合戦で源氏に
勝利をもたらせたことでも知られています。
この水軍は熊野海賊とも呼ばれる海の領主の集まりで、
彼らを統括したのが熊野三山、そのトップが熊野別当です。
熊野別当湛増は、表面上は
神仏習合(仏教と神道が結びついた)時代に
神社を管理した寺の僧侶ですが、宗教的には熊野権現の名において
山伏を統率する熊野修験道の管長であり、
いざとなると熊野水軍を操るリーダーだったのです。

熊野三山には、那智を含む新宮別当家と本宮から拠点を田辺に移した
田辺別当家という二つの家があり、源平双方と関わっていました。
源為義の娘、立田腹の女房(鳥居禅尼)は、湛快に嫁いで
21代別当湛増を生み、湛快の死後、行範(鳥居法眼)を婿にして
19代別当とし、22代別当行快を生みます。

平家は湛増を味方にするために多大の恩顧を与え、さらに
湛増の妹は平家の公達、平忠度の妻となっていました。そのため、
頼朝が挙兵したころは、湛増は平家方として源氏軍と戦いました。
新宮家は源氏と、田辺家は平家とつながりを持っていたため、
両家の争いは次第に激しくなっていました。そのような情勢の中、
熊野別当に就任したのが田辺家の湛増でした。


田辺市役所前左手、扇ヶ浜公園の噴水近くに
「熊野水軍出陣之地」と刻まれた自然石の大きな石碑があります。
田辺市観光協会が昭和47年10月に建立したものです。

平家に深い縁がある湛増のもとに源氏からも援護の要請が入り、
壇ノ浦の戦いでは湛増が源氏方につき、源氏を勝利に導きました。
熊野別当の軍勢は、動乱の時代において、
戦いの趨勢まで左右する鍵を握っていたのです。

扇を広げたかのようななだらかな砂浜が続く公園。
田辺湛増は200艘の軍船を田辺湾に浮かべ、
2000余の軍勢を率いて壇ノ浦に攻め寄せました。

紀伊田辺の絵図は「平家物語を歩く」より転載。

田辺市役所前に弁慶松と弁慶産湯の井戸が復元されています。

弁慶の誕生を記念して植えられたという弁慶松も六代目となりました。
三代目弁慶松は江戸時代、藩主の安藤氏が闘鶏神社の
裏山から移植したもので、高さ15メートル、周囲4メートルの
巨木となっていましたが、昭和50年に枯れました。
その種子から育った弁慶松が現在、田辺市役所前や
岩手県平泉の弁慶の森で育っています。


弁慶産湯の井
弁慶の産湯の水を汲んだと伝えられている産湯の井戸は、
昭和35年まで
湛増の屋敷跡の田辺第一小学校校庭にありましたが、
その上にプールが造られたので、平成元年現在地に復元されました。

弁慶の腰掛石
くぼみのついた弁慶の腰掛石は、田辺第一小学校
(田辺市上屋敷1丁目2−1)の裏手、八坂神社の社殿前にあります。

田辺第一小学校裏手



芭蕉の門人榎並舎羅(えなみしゃら)の句碑。
♪幟(のぼり)立つ 弁慶松の 右ひだり
この碑は弁慶松のところにありましたが、いつかここに移されたという。



闘鶏神社(熊野水軍本拠地)  
『アクセス』
「熊野水軍出陣の地」和歌山県田辺市1 JR紀伊田辺駅から徒歩約15分
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上)」原書房、1995年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年
五来重「熊野詣 三山信仰と文化」講談社学術文庫、2013年
荒俣宏監修「聖地伊勢・熊野の謎」宝島社、2014年
神坂次郎「熊野まんだら街道(105弁慶のふるさと)新潮文庫、平成12年
見延典子「平家物語を歩く」(歩く旅シリーズ歴史文学)山と渓谷社、2005年

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
200艘の軍船と2000人の兵とは一大勢力だったでしょう! (yukariko)
2020-04-19 18:22:40
平氏と源氏のどちらに味方するか、それまでや日頃の恩顧だけでは決められなかったでしょう。
一族を始め、熊野三山の僧兵全てを纏めてどちらかに持ってゆくための決心をするのは並大抵の心労ではなかっただろうと思いますね。
自分はどちらかに決めていたとしてもそれを皆の決意としてまとめ上げるためには『神意』を伺って決めるのが一番だったのでしょう。
熊野水軍が味方した源氏方が勝利したからこそ、この闘鶏神社も立派なお宮として残り、尊崇されて今に至るわけですね。
 
 
 
新宮十郎行家 (sakura)
2020-04-22 14:52:00
院の熊野御幸の随行の折に、源為義が新宮禰宜の鈴木重忠の娘に生ませたのが
新宮十郎行家(以仁王の令旨を諸国の源氏に触れ歩いた)です。

湛増にとって、行家は叔父にあたり、頼朝や義経、
木曾義仲とは従兄弟の関係です。
湛増が闘鶏で源平どちらにつこうかと決めたというのは伝説で、
行家が湛増と義経を結びつけたそうです。

 
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