平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




10年ほど前の平成16年10月23日サンケイ旅行会主催の「熊野古道ウォーク」に参加し、
那智大社・青岸渡寺から大門坂を経て補陀洛山寺までの7km余
を歩きました
途中には、平宗清の荷坂の五地蔵、尼将軍供養塔などの史跡があり、
ゴールの補陀落山寺では、ご住職から境内に展示されている
補陀落渡海船(復元模型)について説明していただきました。

ここまでは熊野那智大社 青岸渡寺  文覚の滝 (飛瀧神社) 
実方院跡  熊野古道大門坂 をご覧ください。

大門坂からバス道に出て道標に従って左折し、那智川に架かる二ノ瀬橋を渡り
そのまま進むと小学校の先にこんもりとした森が見えてきます。
市野々王子神社です。その隣には周囲を石垣に囲まれた「お杉社」とも
「お旅所」ともいわれる市野々王子跡地があり、
天照大神が姿を現わしたという「影向石」があります。












集落の中の道を辿るとやがて補陀落霊園が見えてきます。その傍に
「荷坂の五地蔵」があり、すぐ先には「尼将軍参道入口」の碑がたっています。


斜面にたつ荷坂の五地蔵の説明板
「平弥平兵衛宗清が石屋の弥陀六(やたろく)と名を替えて
一の谷の合戦で亡くなった笛の名手平敦盛(清盛の弟経盛の子十六才)を
供養するため作ったと伝えられています。
宗清は平治の乱(1159年)の後捕えられた幼い頃の頼朝の命を
助けるよう働いた人。後に頼朝は優遇しようとしたが固辞し
屋島の戦いにも参加したが寿永三年(1184年)以後の消息は不明。
平成十六年度 和歌山県地域ひと・まちづくり補助事業
グランドデザイン那智勝浦」


平弥兵衛宗清は、平家の一族で池禅尼の侍です。
平治の乱の敗戦によって頼朝は父義朝に従って東国に向かいました。
義朝一行は不破の関を避けるために伊吹山に分け入りますが、雪が深く
途中で馬を捨て徒歩で山を越えようとします。しかし頼朝は大人にはついていけず
迷子になってしまいました。この頃、尾張守頼盛(池禅尼の子)は、宗清を目代として
任地に下向させます。青墓宿に着いた宗清は、頼朝を見つけて京都に護送し
身柄を預かりますが、やがて頼朝の助命に奔走するようになります。
『平治物語』によると、頼朝が早世したわが子家盛に生き写しだと
宗清に聞かされた池禅尼が清盛に助命嘆願した結果、
頼朝は死罪を免れ配流されることになったとあります。

実際は、頼朝が仕えていた上西門院(後白河院の同母姉)や頼朝の母方の親族

熱田宮司家らが動き、もともと上西門院と親しかった禅尼に働きかけた。
と推測される。ということは池禅尼と頼朝で述べさせていただきました。 

頼朝が伊豆に流される際、宗清は名残を惜しみ近江篠原まで見送っています。

頼朝はこれらの事を終生恩義に感じ、平家都落ち後も頼盛一家を特別視し、
頼盛と共に宗清も鎌倉に招きます。しかし、宗清はそれを潔しとせず一門と
運命を共にしました。頼盛と別れて屋島の宗盛のもとに馳せ参じます。
引き出物を用意し、宗清を心まちにしていた頼朝は、残念がりその意地に
眉をひそめたような言葉を述べたと『平家物語・巻10』は語っています。
その後の宗清の消息は明らかではありませんが、
荷坂峠の説明板によると生きのびて敦盛の供養をしたようです。
青墓(源頼朝・平宗清・夜叉御前) 


荷坂の五地蔵から道標に従って峠道を上ると杉林の中に祠があります。
これが尼将軍供養塔です。


北条政子は尼御台として弟の時房をともなって二度熊野参詣をしています。
一度目は承元2年(1208)頼朝の死から13年後のことです。
この間、頼家が修善寺で亡くなり、将軍は実朝に変わっていました。
亡き夫や子の冥福を祈ることもあったでしょうが、熊野権現に実朝の
後継者誕生を祈願することも目的の一つだったでしょう。

そして二度目は建保6年(1218)時房と政所執事二階堂行光を
従えての熊野詣でした。すでに政子は62歳になっていました。
京都で2ヵ月余りを過ごし、その間に熊野詣に出かけています。

実朝には子供がなく、将軍後継者を視野に入れての滞在です。
京都では藤原兼子に面会しています。この時の政子と兼子の会談の席で
「兼子が後鳥羽上皇の皇子を下すことを内々に約束した。」と慈円は推察しています。
兼子は後鳥羽天皇の乳母となって当時、権勢を振るっていた女性です。

兼子の姉範子は、夫の法勝寺の執行(事務長)能円(平時子の兄弟)が
平家一門とともに西国へ落ちて後、源通親に再嫁しました。
能円との間に生まれた在子を後鳥羽天皇に入内させ、
在子はその後、土御門天皇を生んでいます。


この祠からじめじめした道を下ると長谷川の土手に出ます。
途中で橋を渡り那智川沿いの県道を進みます。標識に従って県道を離れ
左手集落の中の道を少し歩くと、ゴールの補陀洛山寺の裏門が見えます。




ここからは平維盛供養塔(補陀洛山寺) 
維盛入水1(浜の宮王子跡・振分石)
をご覧ください。
『参考資料』
渡辺保「北条政子」吉川弘文館 上横手雅敬「鎌倉時代その光と影」吉川弘文館
 関幸彦「北条時政と北条政子」山川出版社 新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
丁寧な解説付きのツアーに参加しても… (yukariko)
2015-02-13 17:47:03
詳しい説明を聞かせてもらっても、聞く当人に登場人物とその時代背景が分からなければ「馬に念仏」「豚に小判」(笑)…よく分からないと切り捨ててしまいそう。

特にこの時代の登場人物は一門、親子、叔父甥、義理、姻戚関係が多いし、身分もその時々で変わるからしっかり把握していないと右から聞いて左に抜けそうで、ごっちゃになってしまいそうですね。

こうして続けて読ませて頂いてさえ、以前の記事の所に戻って復習して納得することが良くありますから。
 
 
 
しっかり理解していないと難しいですね。 (sakura)
2015-02-15 10:10:35
ご指摘のように、平家物語には千人をこえるという数多くの人物が登場します。
1度しか登場しませんが、敦盛や那須与一のように印象的な人物や
名もない武士や僧兵たちが隠されたエピソードを持っていたり、
舞台も北は東北地方から南は喜界が島まで広がり、
複雑な政治情勢や人間関係が繰り広げられることもあります。
平家物語は歴史書ではなく、物語ですから人物や事件は、
時には、史実とかけ離れていることもあり、本当に複雑です。
 
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