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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




韮山駅
  
韮山駅から西に向かい国道136号線に出て南に500㍍ほど歩きます。
そこから西に少し入ったところに、北条時宗の三男正宗が開いたと伝わる
成福寺(じょうふくじ)
があります。

成福寺(真宗大谷派)
寺伝によると、鎌倉幕府八代執権北条時宗の子北条正宗(幼名満市丸)が、
正応二年(1289)父の死後鎌倉を離れ北条氏の故郷伊豆北条村に戻り、
伊豆の国在庁官人であった北条氏の先祖平時家・時方の庁舎持仏堂跡に
成福寺を建て両親の墓をつくり、歴代北条氏の菩提を弔った。
現在も北条氏の子孫が寺を守っています。伊豆の国市四日町981


本堂


南に進むと伝堀越御所跡(国史跡)があります。
説明板がたち、周辺の史跡や堀越御所について詳しく解説されています。
伝堀越御所跡とは、室町幕府より派遣された堀越公方
足利政知の御所があったと伝えられる場所です。

室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し各地で戦乱が起こりました。
将軍足利義政は、当時対立していた鎌倉公方足利成氏と上杉氏との
合戦の続く関東へ兄政知を還俗させ新たな鎌倉公方として下向させますが、
政知は鎌倉に入ることができず韮山の堀越に屋形を建てとどまりました。
このため政知を堀越公方と呼び、敵対する成氏は古河公方と呼ばれ、
その後、明応二年(1493)政知の子茶々丸は、駿河勢(北条早雲)によって
滅ぼされました。北条氏の氏寺である願成就院には茶々丸が
当寺で自害したという伝承があり、境内には茶々丸の墓があります。


政子の産湯井戸の碑は伝堀越御所跡広場の向かい側にあります。

「北条政子産湯之井戸」の碑

産湯の井戸は民家の前にあります。

狩野川に面する守山の北側には、北条氏邸跡(国史跡)があります。
願成就院・守山八幡宮・北条邸跡  
『アクセス』
「政子産湯の井」
伊豆の国市寺家字守山1216
伊豆箱根鉄道韮山駅徒歩約15分
『参考資料』
「静岡県の歴史散歩」山川出版社 「静岡県の地名」平凡社

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
鎌倉以前の遺跡は少ないでしょうね? (yukariko)
2010-05-17 22:20:33
鎌倉三代の後、北条氏が執権となって実質幕府を動かした頃以降の歴史や御所跡、菩提寺などは公文書を始め寺伝や古書にも詳しいでしょうが、そのはるか前の時代、地方の小地域の豪族達の詳しい動向は公文書にも詳しくは載っていないでしょうから、調べて書き込んで下さるのも大変な作業だろうと想像いたします。

京の町中の言い伝えが山ほどある常盤井や義経産湯井と政子の産湯の井戸を比べるのは無理でしょう。
北条氏の大姫ではあっても地方豪族の館内の誕生でしょうし、常盤は側室ですがそれでも京の都で源氏の棟梁の館は大きかったでしょうから。

でも政子は父親が一緒に下向してきた伊豆国目代平兼隆・平氏の旗頭に嫁入りさせられたのに飛び出して源氏(頼朝)を選び、それに従って父親の時政も平氏にお味方する筈が源氏に鞍替えした訳だからホントこの事が無かったら後世はガラッと変わっていたかもしれないのですね(笑)

げに恋・愛・恋とは恐ろしいものですね(笑)
 
 
 
お返事が遅くなりすみませんでした (sakura)
2010-05-21 14:03:14
京・鎌倉のことは記録によって大概のことはわかるのでしょうが、地方の動きは史料としてしっかりとしたものが残っていません。
歴史の表舞台へと登場するまでの北条時政・政子についても不明な点が多いといわれています。
そこで歴史学者たちが、確実な史料だけではわからないことは、二流といわれる史料もうまく利用して、独自の立場で推測し真実に迫ろうとされ、それぞれの著書の中でそれを論じてらっしゃいます。当然そこには見解の相違も見られます。記事はそれらを読んだ簡単なまとめのようなもので、私が調べたのではないのです。
 
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