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鎌倉まではるばる連れてきておいて… (yukariko)
2014-05-29 21:47:37
朝敵には出家など許されないなら、速やかに処分を決めればいいのに、、幕府の判断ではなく、あくまで朝廷の判断を待つ形をとるのに、なかなか決まらない朝議で処分が決まるまでの間のつもりか、狩野介宗茂(むねもち)に預け千手の前という世話をする人まで手配というのも、ややこしい?
貴人の場合はそういうものかな?
彼も伊豆に流されて20年を過ごしたのだから。

謡曲の駒札に書かれているのが本当ならまた京へ再護送される途中に殺害されてしまったのですね。
…彼にとっては一族の滅亡の際に手柄どころか討死も出来ず死に遅れたとずっと悔み嘆いていたでしょうから、『やっと死ねる』と思って却ってホッとしたのではないでしょうか。
千手の前はその昔の巴御前と同じく、尼になって後世を弔ったのでしょうが、女の感傷などどこへやら、男は従容として死に赴いたような気もします。
 
 
 
奈良の入口、木津川の畔で処刑されました。 (sakura)
2014-05-31 10:18:24
はるばる鎌倉まで連れて来て、一年余も処分せずに預けておいてと
憤慨されるお気持ちはわかるのですが…

頼朝の前に出て少しも臆せず堂々とした重衡の態度に頼朝はひどく感服し、
処刑する意思は全くなかったようです。
かえって千手の前を遣わせて手厚くもてなしています。
「吾妻鏡」には重衡を非難する記事はどこにもなく、
それどころか彼のいさぎよい態度を称賛さえしています。

当時鎌倉は武家政権が打ち立てられる途上にあり、
頼朝のことですから平家に勝利した後の政治設計がすでにできていて、のちに重衡を利用しようという計算もあったとは思いますが、
一年余の間頼朝としては、何とか重衡を助命する時期を待っていたように思います。

しかし平家一門が壇ノ浦で全滅すると、南都の衆徒たちから、
重衡の処刑を求める声が日に日に高まってきました。
頼朝は南都の復興にも積極的に取り組んでいましたから、
重衡を擁護することは立場上できなくなったのです。
南都の執拗な要求に応えるため、重衡は東海道を西へ送られ衆徒たちに引き渡されました。
 
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