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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



鎌倉幕府が成立すると、京都鎌倉間の往来が盛んになり、
その間を結ぶ東海道は重要なルートとなりました。
東海道の旅を記した作品には、古くは『伊勢物語』や
『更級日記』などがあり、鎌倉時代に入ると『海道記』、
『東関紀行』などの紀行文が書かれるようになりました。
紀行文は、道中の地名を文章の中に連ねて日を重ねていきます。
地名は和歌に詠まれて広く知られた場所、いわゆる歌枕が綴られます。
『平家物語・海道下』は、それらの作品の影響を受け、
重衡が東海道をいかに下って行ったかを周辺の歴史や
歌枕にちなむ故事などを紹介しながら美しい文章で綴っています。

さて梶原景時に護送された平重衡が池田宿をあとにしたのは、
三月もなかばを過ぎ、はや春も終わろうとした頃です。
遠山の桜花は残り雪かのように見え、
沿道の浦々や島々は霞にすっぽりと包まれています。
来し方行く末のことを思い重衡は、「いったいどのような宿業で
このような憂き目にあうのか」と尽きせぬものはただ涙ばかり。
小夜の中山(静岡県掛川市)へさしかかった時には、
西行の歌のようにふたたびこの峠を越えることはあるまいと思われ、
涙で袂をひどく濡らしました。

小夜の中山は、『古今和歌集』をはじめとして
勅撰和歌集などにも多く詠まれてきた古くからの歌枕です。
当時、箱根・鈴鹿とともに東海道の難所といわれていた
この峠を西行は二度越えています。
一度目は、北面の武士として鳥羽上皇に仕えた西行が
突然出家し、京を離れ諸国の歌枕を巡る旅に出た時。

二度目は平家が壇ノ浦で敗れてから一年後のことです。
平重衡の南都焼き討ちによって伽藍を失った
東大寺再建を指揮した俊乗房重源の依頼により、
大仏に貼る金箔の調達のために奥州に赴いた時、
♪年たけて又越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山
(年老いてまた小夜の中山を越えると思ったであろうか。
69歳の今、この老の身をひきずってふたたび越えている。
命があったからだなあ)と険阻なこの峠を40年以上前にも
越えたことを思いだし、「命なりけり」とその感慨を詠んでいます。
『平家物語』では、この和歌を引用していますが、
西行が小夜の中山を越えたのは、平重衡が鎌倉に下ってから
二年後の文治二年(1186)の春のことです。

蔦かずらの茂った宇都谷峠を心細く越えて手越の宿を過ぎ行けば、
北方はるか遠くに雪山が見えます。
名を問うと甲斐の白根山ということでした。重衡は涙をおさえて、
♪惜しからぬ命なれども今日までに つれなき甲斐の白根をも見つ

(惜しくもない命ですが、今日まで生き永らえてきました。
その生きがいが甲斐の白根山を見ることだったのか。)と
重衡が自嘲気味に詠んだのは、『海道記』の一節
「北に遠ざかりて雪白き山あり、
問へば甲斐の白嶺といふ。年ごろ聞きしところあれば見つ…
惜しからぬ命なれども今日あれば 生きたる甲斐の白ねをも見つ」を
借用したもので、重衡の作ではありません。


清見が関を通り過ぎ、富士山の裾野にさしかかると、
北には青山が険しくそびえ、松吹く風は寂しく、
南には青い海が広々と横たわり、岸打つ波は煙っています。
「恋ひせば痩せぬべし、恋ひせずもありけり」と
足柄明神が歌い始めたという足柄山を越え、
このくだりは、足柄明神が3年間会わなかった妻を見て、
「私を恋しがっていれば痩せているはずなのに、
太っているのは恋しがっていなかったからだ」という歌を詠み、
妻に文句を言ったという足柄山に伝わる伝説で
今様の足柄の歌詞に見えます。

こゆるぎの森、鞠子川(酒匂川の古名)、小磯大磯の浦々、
八的(やつまと、辻堂海岸)、砥上(とがみ)が原(鵠沼付近)、
御輿が崎(七里が浜)を通り過ぎ鎌倉へ到着しました。
清見(きよみ)が関
 興津は古代からの交通の要衝で清見寺(せいけんじ)の
門前には、清見が関跡の標柱が建っています。
この関は、清少納言の『枕草子』「関は…」にも書かれている
関の一つで、重衡の護送役の梶原景時が、後に襲われた地です。
鎌倉幕府創建の功労者梶原景時は、頼朝が没した翌
正治二年(1200)、御家人内の勢力争いにやぶれて鎌倉を追われ、
再起を期して西国に赴く途次、清見が関で北条時政の意向を受けた
地元の豪族に襲われ、梶原山で自害しました。
梶原山(静岡市清水区)山頂には、
「梶原景時終焉の地」の石碑が建っています。
清見寺は、寺伝によると天武天皇が清見が関を守るために
建てた仏堂が始まりと伝えられています。


静岡市内の梶原景時ゆかりの地を訪ね、
最後の目的地興津に着いた頃にはあたりは薄暗くなっていました。


清見寺の総門をくぐり、東海道本線を渡って境内に入ります。
総門の向こうに電車が走っています。

清見寺の東側の隅

清見関跡と記された標柱と関所跡の礎石が残っています。

『アクセス』
「清見関跡」静岡市清水区興津清見寺町418-1

JR興津駅から静鉄バス三保山の手線「清見寺前」下車徒歩1分
JR興津駅下車 国道1号線を静岡方面へ徒歩約20分(1200m)
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 
「静岡県の地名」平凡社
 「静岡県の歴史散歩」山川出版社 梶原等「梶原景時」新人物往来社 
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 「東海道名所図会を読む」東京堂出版
 白洲正子「西行」新潮社 
岡田喜秋「西行の旅路」秀作社出版

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント(10/1 コメント投稿終了予定)
 
 
 
蝉丸神社も線路が前を横切っていましたが… (yukariko)
2014-05-23 22:18:58
東海道線が総門とお寺の中を分けているのにはびっくりしますね。
有力御家人の梶原景時も勢力争いに敗れて鎌倉を追われ、催告に赴く途中に北条時政の意向を受けた豪族に襲われ、自害したと書いて下さってますね。
梶原景時の最後がどうだったかを知りませんでした。

出家した熊谷直実以外にも有力御家人同士の勢力争いで滅ぼされた武士達が幾人もいますね。本当に熾烈ですね。
上手に最後まで残ったのは北条氏、源氏自体も直系は三代で消えるのだから裏で糸を引いて上手に立ち回ったのは鎌倉政権を最初から支えた政子の実家、妥当なところなのでしょうか?
 
 
 
ちょっと驚きのロケーションです。 (sakura)
2014-05-24 15:48:34
それにお寺の景観も損なわれますね。

頼朝が亡くなると、北条氏はライバルを次々に蹴落としていきます。
その最初の犠牲者が鎌倉幕府の草創期、源頼朝を支え、重用された梶原景時です。
頼朝没後、景時は頼家の乳母夫として頼家を支えますが、
頼家は頼朝のように景時を買ってなく、両者はあまりうまくいかなかったようです。
有力御家人たちが景時を弾劾する弾劾状を頼家に提出した時、
頼家は景時を庇おうとせずに弾劾状を呑んでいます。
駿河国は北条氏の所領であるため、景時謀殺は北条氏の
手の者によるとの味方が有力です。
 
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