平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




伊豆の狩野介宗茂に預けられた平重衡は、まもなく伊豆から鎌倉に移されます。
重衡の器量に感心した頼朝は、丁重にもてなし御所内の建物一軒に招き入れました。
速やかに首をはねられよ。と即刻断罪を願った重衡ですが、
これから鎌倉で一年余も過ごすことになります。


ある雨のそぼ降るものさびしい夜、頼朝は重衡の徒然を慰めようと
藤原邦綱、工藤祐経、官女の千手を遣しました。
祐経が鼓を打って今様を謡い、千手前が琵琶を弾き、重衡は横笛を吹いて
時を過ごします。祐経は以前、
平重衡に仕えていたことがあり、歌舞音曲に通じ、
頼朝の側近の中では、最も趣味の広い文化人でした。


千手前は面白くなさそうな重衡の様子を見てとり、『和漢朗詠集』から
重衡の心を汲んだ内容の「十悪といへどもなお引摂す」という朗詠を歌い
「極楽往生を願う人はみな、弥陀の称号を唱うべし。」という
弥陀の慈悲を讃える今様を4、5遍くり返すと、
重衡の気持ちが少しほぐれてきたのか、ようやく杯を傾けました。
それから琴で「五常楽」を弾くと、重衡はふざけて「この楽は五常楽であるな。
いまの自分には後生楽(後生安楽)と聞こえる。
それではすぐ往生するよう往生の急でも弾こうか」と琵琶を手にとって、
「皇じょう」の終曲にあたる急を弾きました。「五常」を「後生」にかけ、
「往生の急」を雅楽の「皇じょうの急」にしゃれて言い換えたのです。
雅楽では、楽曲を構成する三つの楽章、序・破・急(テンポが速い)があり、
重衡は皇じょうの「急」の部分を弾き、往生を急ごうという気持ちを表しました。
この逸話から重衡が清盛と時子との間の末の息子で、
両親からも大変に可愛がられて育ち
陽気で、冗談が好きな性格であったことを思い出させてくれます。

「ああ思ってもいなかった。あづまにもこのように雅びな女性がいるとは。
何かもう一曲」と重衡が所望すると、千手の前は「一樹の陰に宿りあひ、
同じ流れを結ぶも、みな是前世のちぎり」という白拍子舞につけて歌う歌を
心をこめて歌います。するとあまりの面白さに重衡も『和漢朗詠集』の中に収める
「灯闇うしては数行虞氏が涙 夜ふけて四面楚歌の声」という朗詠を歌います。

この朗詠の意味を少し説明しましょう。
昔中国で、漢の高祖(劉邦)と楚の項羽が位を争って合戦すること七十余度、
戦いごとに項羽が勝利しますが、最後には敗れ、項羽の垓下(がいか)城は
敵の大軍に包囲されます。夜が更けるにつれて包囲する四方の漢軍の中から
項羽の故郷の楚の歌が聞こえ、項羽はもはや楚の民がみな漢に降ったかと
驚き嘆き、最愛の妃虞美人と別れを惜しみ涙を流した。と『史記』にあります。

橘広相(ひろみ)が項羽の心を歌ったこの朗詠を重衡は思い出し、
項羽を自らに重ね合せ、自分が四面楚歌の状況
に置かれている事を実感し
また琴や歌でなぐさめる千手の心遣いに触れて心を開き、二人の間に流れる
時間を項羽と虞美人との最後の夜になぞらえて、歌ったのでしょうか。
『平家物語』は、「いとやさしうぞ聞こえし。」と語っています。
重衡の朗詠が優雅であっただけでなく、
二人の歌の応酬がまことに優美に聞こえた。といっているのです。


外で立ち聞きをしていた頼朝は、翌朝千手に向かい、世間体を憚って、宴に
同席しなかったのが悔やまれる。と言い重衡の芸のすばらしさを称賛すると、
その場に居合わせた斎院次官中原親義がやはり残念がり、
「そうでしたか。平家一門には、代々歌人や才人が揃っていますが、
重衡殿は歌舞音曲の名手であられますか。
いつぞやこれらの人たちを花にたとえたことがございましたが、この時、
重衡殿の
華やかさを牡丹の花にたとえられました。」と語りました。
こうして重衡の撥音や朗詠の歌いぶりは後々の語り草となりました。
そしてほんの一晩ですが、
千手前と重衡は朗詠や楽曲を通して互いに心を通わせました。
これは『吾妻鏡』、『平家物語』の中の
重衡の風流な一面が印象深く語られた一節です。
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館 新潮日本古典集成「和漢朗詠集」新潮社



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
下知した将として東大寺を焼いた責任を一身に引き受け断罪を願ったのに… (yukariko)
2014-06-06 19:21:22
引き延ばされて一年も留め置かれたら、気も重くて歌舞音曲を楽しもうという気も起らないでしょうね。

でもつれづれを慰めようと使わされた人々を頭から断る心無い仕打ちもせず、一緒に時を過ごすのですね。

深い素養がある千手の前と詩歌のやり取りからユーモアやウイットを感じて、重衡本来の優しくて楽しい性格が頭をもたげて、心を開き、ともに楽しまれた。
その情景を覗き見て、頼朝も改めて重衡の歌舞音曲の名手として都で褒め称えられていた一面を知って称賛したのでしょう。
亡くなられるいきさつがひどいですが、時の流れは他の平氏の公達にも惨いですものね。
 
 
 
いつ処刑のお達しがあるかわからない状況下 (sakura)
2014-06-08 09:26:09
重衡の重苦しい心が千手の機転で少しずつ解けて、
重衡の周辺に女房達が群れ、和歌や音曲に興じていた頃を
一瞬でも思い出したのでしょうね。

 
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