コメント
 
 
 
後世の遊女とは全く違う教養ですね。 (yukariko)
2014-05-16 21:54:07
身分の高い人が泊まるとその宿の娘などが一夜妻として侍るのが習いだった。
中には京に呼ばれても通用する教養の持ち主もいて都人になった人も多かったかも。熊野は特別な例ですね。

その結果、長者の娘や遊女で武将の母になった人も多かったでしょうね。

♪ふるさとも恋しくもなし旅の空 都もついのすみかならねば 
(旅にあっても故郷が恋しいとは思いません。
都はもはや安住の地ではないのですから)と詠った重衡の何もかも諦めて鎌倉に送られる心境はさぞやと思います。
そこで聞かされた都の話・昔平氏が栄華を誇った頃の兄と熊野(侍従)の清水での出来事と歌のやり取りに何を思ったでしょうか?
 
 
 
全くちがいます。 (sakura)
2014-05-17 10:47:35
平重衡は侍従の教養の高さに驚き、梶原景時に彼女の素性を尋ねたようです。
遊女は広い意味での遊び女ですが、歌や舞などの高い
技芸と教養を備えた芸妓をいいます。

院政期には、傀儡女(くぐつめ・交通集落の宿を拠点とした遊女)から
白拍子が出て、鎌倉時代に大流行します。
傀儡女や白拍子は、天皇や院、高位の武将などの近くに侍るため
その寵を得る例がありました。

義朝は範頼だけでなく、江口(大阪市東淀川区)の遊女に女子を生ませ、
そして青墓の長者、延寿(今様の名手)との間に夜叉御前をもうけています。
義経と静御前、後白河院と祇王・妓女、仏御前、
のちに承久の乱で隠岐に流された後鳥羽院には亀菊という
白拍子が20年近く仕えました。
遊女が性を売るようになった時期ははっきりしませんが、
「撰集抄」という説話集には、江口の里の遊女と西行が和歌のやりとりをしたという
優雅な物語があり、そこには往来の船の旅人に遊女が媚を売る様子も描かれています。

重衡にも屋島にいる北の方のほかに、宮中に仕える女房の恋人がいて
鎌倉に連行される前に、土肥実平の計らいで今一度の逢瀬がかなえられました。
 
 
 
訂正 (sakura)
2014-05-18 08:49:11
コメント欄に「後白河院」と書いたのを「清盛」と訂正させていただきます。
祇王・仏御前は清盛が寵愛した白拍子。
その援助で祇王の母刀自と妹妓女は豊かな暮らしをしていました。
 
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