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小松寺がある東茨城郡城里町(しろさとまち)は、茨城県の西北部にあり、
水戸城の北に位置しています。豊かな自然に恵まれたこの町には、
東国に落ちた平貞能(さだよし)の足跡が残っています。
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白雲山普明院小松寺(真言宗智山派)は、寺伝によると天平17年(745)に
行基が大御堂を建立したのが始まりとされています。平重盛の信頼が篤かった
平貞能は出家して小松坊以典(いてん)と名のり、この地で主人重盛の
菩提を弔ったと伝えられ、裏山の中腹に重盛の墓と伝えられる宝篋印塔のほか、
貞能、重盛夫人(得律禅尼)の墓と称する五輪塔2基が残されています。
天正13年(1585)戦乱により、唐門と観音堂を残し焼失しましたが、
寛文3年(1663)に徳川光圀の寄進により再建され、その後、
昭和45年(1970)に改築されました。寺宝の平重盛の念持仏と伝えられる
「浮彫如意輪観音像(うきぼりにょいりんかんのんぞう)」は国の重要文化財に、
「伝内大臣平重盛墳墓」は県の文化財に指定されています。
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小松寺へのバス便はJR水戸駅から「小松」停まで朝夕各二本ほどあるだけなので、
タクシーを利用することにしました。小松寺に一番近いJR内原駅で
タクシーの運転手さんと7000円(往復運賃、参拝と撮影30分)で
交渉がまとまり、広い境内を駆け足で周りました。
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小松寺の門を覆うように枝を垂らすしだれ桜は、
茨城百景のひとつにも数えられる観光スポットです。
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門前にたつ「茨城百景小松寺」の碑
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「唐門(両唐破風中爵門・りょうからはふうちゅうしゃくもん)
京都小松谷にあった平重盛邸の勅使門を模造した建造物で、
常陸大掾(だいじょう)義幹(よしもと)が建久二(1191)年に寄進したと伝える(寺伝)
特徴としては本柱が円柱、控柱が角柱で、柱の下に礎盤(そばん)がある。
柱の上部には精巧な籠彫(かごぼり)が施されており、
扉は桟唐戸(さんからと)である。建築様式上からは「向う唐門」という。
昭和四七年十二月二七日 町指定建造物に指定された。
城里町教育委員会」(現地説明板より)
大掾義幹は桓武平氏の流れをくむ常陸平氏の嫡流です。
常陸国(茨城県)の守は現地に赴任せず、介(次官)が事実上の支配者として代行し、
大掾(判官)を中心とする在庁官人が結成されました。
平将門の乱を藤原秀郷とともに鎮圧した平貞盛の甥である
平惟幹(これもと)以後、この大掾を名のります。
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本堂 本尊は大日如来
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本堂と観音堂をつなぐ渡り廊下の下を抜けると、
裏の白雲山へ続く道があるとご住職に教えていただきました。
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参道上り口に平成7年10月の「高野山智積院参拝記念碑」がたっています。
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急な石段を上っていくと、明治28年に建立された「小松内府遺骨塚碑」と
彫られた大きな碑があります。
陸軍大将大勳位功二級彰仁親王篆額、正三位侯爵德川篤敬撰文並びに書です。
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平貞能は平家一門都落ちの際、潛かに都に戻り、重盛の墓を掘り起こし、
その遺骨を髙野山に分骨し、残りの骨を持ち重盛夫人・得律禅尼を伴って
大掾(だいじょう)平義幹(よしもと)の案内でこの地に至った。
義幹から茨城郡金伊野村の白雲山を給り、重盛の遺骨を山中に埋め、
堂塔を創建して普明院小松寺とし、後、義幹の二子を僧とし重盛の霊を弔った。
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さらに石段を上ると平地に出ます。
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左側には梵字塔や墓石などが並び、平重盛の宝篋印塔はその右側の急斜面にあります。
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梵字塔と「開山宥尊(ゆうそん)宗舜上人 満?」と彫られた石碑
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重盛夫人は貞能の姉であったらしく、この北方に相応院という尼寺を建てたという。
貞能の姉が重盛夫人であったということについては不詳です。
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ご住職から危ないので垣から上へは上らないよう言われていたので、
ここから参拝しズームを使って撮影しました。
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一番高いところにある宝篋印塔が重盛の墓
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重盛の墓の一段左下にある小さな五輪塔が重盛夫人の墓、その左側にあるのは
禅僧(住職)のお墓として使われる無縫塔(むほうとう)ですから、
小松寺第2世となった大掾義幹の息子の墓とも考えられます。
貞能の五輪塔は重盛の墓の向かって右下にあるはずなのですが、
(ご住職にズーッと下と伺いました。)
雑草に覆われているのか見つけることができませんでした。
平重盛の墓(小松寺2)
平重盛の念仏堂跡と伝える小松谷正林寺
小松谷正林寺(平重盛阿弥陀経石 ) 平重盛邸宅跡から池跡出土
重盛創建の法楽寺 大阪市の法楽寺(1)源平両氏の菩提を弔った寺
『アクセス』
「小松寺」茨城県東茨城郡城里町上入野2912 029-288-4312
JR常磐線内原駅からタクシーで約20分
JR常磐線水戸駅北口より小松まわり石塚方面行「小松」停(約50分)徒歩10分
茨城交通 029-251-2331
『参考資料』
「茨城県大百科事典」茨城新聞社、1981年「茨城県の歴史散歩」山川出版社、2006年
「姓氏家系大辞典」角川書店、昭和49年「鎌倉・室町人名事典」新人物往来社、昭和60年
寺宝の重盛公の念持仏が重要文化財に指定されたり、小松寺が水戸藩主にも大切にされて良かったです。
清盛は息子のために京都にさぞ立派な墓をたてたと思われます。
小松寺は宥宝が水戸光圀の帰依を受けて再建したそうです。
その後、この寺は荒れるに任せていた時期もあったようです。
寺宝の如意輪観音像は、明治44年、重要文化財に指定されています。
重盛の墓も時代が変わってからは都ではなく、一門ともども高野山にあるのだろうと勝手に思っていたのですが、思いがけない所ながら、立派に供養されていたのですね。
家臣であった平貞能が主君の遺骨とともに、重盛夫人・妹らを伴って
高野山に逃れ出家、小松坊以典と名をかえ、北陸をまわって下野国塩原に隠れた。
そこで領主宇都宮朝綱の保護に預かり、頼朝に伝えられて隠れ住むことを許された。
その後、元平家の一族であった大掾氏を頼り常陸に入り、
大掾義幹の案内で白雲山に重盛の遺骨を埋葬し、
宝篋印塔を建て、伽藍を建立し小松寺と名づけた。」とあり、
史実と異なる箇所がいくつか見られます。
重盛の墓は法性寺にあったとも、六波羅にあったとも、
また近年、法住寺殿跡地(東山区)で発掘された武将の墓を
重盛の墓と見る説も出されています。
法性寺は平家滅亡後、平家の残党がこの寺の一の橋に立てこもり、
辺り一帯戦場となりました。また六波羅はご存知のように
都落ちの際、一門の手でことごとく焼き払われています。
清盛終焉推定地は、この法性寺のすぐ北側にあたりますね。
高野山に送られたのが分骨であれば、京都の墓には
重盛の遺骨の一部が埋葬されていたはずですから、
都落ちの時に貞能が掘り起こして所持し、
城里町の小松寺に埋葬したということは十分考えられます。
しかし京都の重盛の墓は拝み墓であったかもしれません。
長くなります。
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