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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




蛭ヶ島公園の西、狩野川に面する守山の北側に北条氏館あとがあります。
平成4年から5年にかけて行われた北条邸跡の発掘調査で、
平安時代~鎌倉時代始にかけての出土遺物や建物跡が見つかり、
北条邸があった場所であることが確認されました。
現在、邸跡は囲われているのでみることができません。

北条氏は水陸交通の要衝に位置する当地を本拠地とする在庁官人で
あったと思われ、
守山の東側には北条氏の氏寺・願成就院があります。

治承4年(1180)、平家追討を命じた以仁王の令旨が頼朝のもとに届いた頃、
頼朝は、願成就院北辺にあった北条御亭(ごてい)に住んでいたという。

伊豆国北条周辺は平家物語図典より引用

頼朝の奥州征伐の戦勝祈願に北条時政が建立した願成就院
鎌倉時代を通じて北条氏の崇拝を受けて繁栄しましたが、
北条氏が滅ぶと願成就院も衰退していきました。


現在の山門、本堂は近年建立されたものです。

◆願成就院 高野山真言宗 
寺伝によれば天平元年(729)行基が建立。

頼朝は当寺に源氏再興を祈願し、鎌倉幕府を創立しました。
この報恩のため、文治2年(1186)奈良から運慶を招き、

阿弥陀如来像、毘沙門天像など、四体の仏像を刻ませ祀ったという。
この仏像は、本堂に安置されいずれも国の重要文化財に指定されています。

大御堂は、文治5年(1189)6月、北条時政が、頼朝の奥州征伐の
戦勝を
祈願して建立し、その後、義時・泰時など北条氏によって、
伽藍が拡大され北条氏の氏寺となりました。

しかし室町時代、北条早雲に攻められた足利茶々丸がこの寺に逃げ込んだ際、
兵火に見舞われ、さらに豊臣秀吉軍による兵火にかかり寺運は衰退しましたが、
江戸時代に北条氏貞が再建、現在の大御堂(本堂)は昭和に再建されました。
境内一帯は「願成就院跡」として国の史跡に指定され、
門前左の広場には「国指定史跡願成就院」の碑が建っています。


願成就院の奥に守山八幡宮があります。


頼朝が戦勝祈願したという守山八幡宮


守山八幡宮(願成就院の鎮守) 
「當社の創建は大化三年(六四七)

御祭神は大山祇神で 延喜式内石徳(いしとくの)高神社です
延喜七年(九〇七)豊前国宇佐宮より八幡神を勧請合祀 

其の後 専ら伊豆国総社八幡と称す 
治承四年(一一八〇)源頼朝此處に源家再興を祈り兵を挙げる
 現在の本殿は寛永九年(一六三二)
久能城主榊原大内記照久の造営である」由緒書より


鳥居のすぐ傍に建つ「史蹟源頼朝挙兵之碑」には
「源頼朝 治承四年(一一八〇)八月十五日守山八幡宮に平家追討を祈願して挙兵 
夜陰 源氏重忠の軍兵数十騎 山木判官平兼隆を襲い討つ 其の間頼朝遥かに

山木館の火煙を望み 悲願の達成を悦ぶ蓋し鎌倉幕府草創の礎は
ここに於て成る故に記して建碑の所以とする 」と刻まれています。

『源平盛衰記』によると、伊東祐親の娘との恋にやぶれた頼朝は、
北条時政が大番役で留守中、
娘政子と恋仲になり、帰国の途中、
このことを聞き驚いた時政は、ちょうど一緒に
下向してきた
伊豆国目代山木兼隆に娘政子を嫁がせる約束をしました。

大番役というのは諸国の武士が三年交替で内裏警固の役に当たることをいいます。
伊豆に戻った時政は、早速嫁入り話をすすめて政子を山木兼隆邸に
送り届けましたが、政子は、ある風雨の夜、隙をみて逃げ出し、
山を越えて伊豆山権現(熱海市)にいた頼朝のもとに走ります。

頼朝は伊豆山権現を厚く信仰して、そこの覚淵(かくえん)は、
頼朝の仏教上の師であり、法音尼(ほういんに)は政子の経の師でした。
当時、伊豆山は修験の霊場で僧兵が多かったので、時政は手出しができず、
二人の仲を認めざるを得なかったという。
二人が結婚したのは、長女大姫(おおひめ)の年齢から推して
頼朝31歳、政子21歳、治承元年(1177)頃であったと思われます。
やがて時政は頼朝を娘婿として認め、何かと援助するようになっていきます。
桓武平氏の流れをくむ北条時政は、直方が上総介となり、時政の祖父時家が
狩野川沿いの伊豆北条に本拠をおいて北条氏と称したという。
ここで少し時代を遡って時政の先祖直方をご紹介します。
万寿4年(1027)上総、下総一帯に勢力をもった平忠常が乱を起こし、
平直方が追討使に任じられるが、直方は戦果をあげることができず、
朝廷は直方を都にかえし、代わって甲斐守源頼信に追討を命じました。

源頼信は忠常の子法師とともに下向し、
地道な折衝を続け戦うことなく乱は終りをつげます。
後に平直方は弓上手な上、豪胆・沈着冷静な頼信の嫡子頼義を見込み、
娘を嫁がせ八幡太郎義家、賀茂二郎義綱、新羅三郎義光が生まれています。
直方は義家が誕生すると、鎌倉を頼義に譲り

それ以来鎌倉は源家相伝の地となりました。
『アクセス』
「願成就院」伊豆の国市韮山町寺家 伊豆箱根鉄道「韮山」駅下車
国道136号線に出て徒歩約20分
『参考資料』
「郷土資料事典」(静岡県)人文社 「静岡県の地名」平凡社 奥富敬之「吾妻鏡の謎」吉川弘文館
永原慶二「源頼朝」岩波新書 渡辺保「北条政子」吉川弘文館 「源頼朝七つの謎」新人物往来社 
「静岡県の歴史散歩」山川出版社 竹内理三「日本の歴史」(6)中公文庫
「平家物語図典」小学館

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 



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蛭ヶ小島は平治の乱後、配流となった源頼朝が14歳から20年ほど過ごした地です。
「韮山(にらやま)駅」の南東へ15分ほど進むと、頼朝・政子のブロンズ像や
配所跡を示す蛭ヶ小島の石碑があり、周辺は公園に整備されています。 

町の西端には狩野川が北へと流れ、
あたり一帯はのどかな田園風景が広がっています。

当時の蛭ヶ小島は、狩野川の流域に点在する中洲や川中島の
ひとつであったといわれ、頼朝は挙兵までの青少年期を、
読経と写経を日課とする静かな日々をこの地で過ごしています。
その後、狩野川の流れは大きく変わり中州が消え、田園地帯となりました。

伊豆国北条周辺図、平家物語図典より引用

韮山駅の改札を出て、駅の南側の踏切を渡り、そのまま直進します。
三つ目の交差点を右折し、一本南側の道に出て左折すると、その先に史跡が見えてきます。

韮山駅から蛭ヶ小島への途中、雲の切れ間から富士山がみえます。



路面には、頼朝、八重姫、北条時政などの図が描かれています。

蛭ヶ島(ひるがしま)
もとは狩野川の氾濫によりできた中州の一つで、
当時は湿田に囲まれた島状の地形でした。
頼朝は永暦元年(1160年)14歳の時にここに流され、
約20年間の流人生活をおくりました。

当初は監視の目もそうとう厳しかったと思われ
『平治物語』には、
頼朝の監視は伊豆の在庁官人の伊東祐親(すけちか)、
北条時政に
命じられたと書かれています。在庁官人というのは
現地の豪族から採用して、
国司を補佐する実務官僚のことをいいます。

時が流れるに従って監視も緩み、頼朝は初恋の相手八重(祐親の娘)との間に
千鶴(せんづる)を儲けました。京都の大番役から帰った
祐親は
烈火のごとく怒り、千鶴を川に沈めて八重を他家に嫁がせました。

次に頼朝が相手に選んだのが時政の娘政子でした。やはり大番役から
戻った時政は驚き、政子を伊豆の目代山木兼隆に嫁がせましたが、
政子は婚礼の夜、山木館を抜け出し頼朝の許に走りました。


頼朝が平治の乱後、捕えられて蛭ヶ小島に流されたのは14歳の時でした。
挙兵までの20年もの間、経済的援助を行ったのは乳母の比企尼でした。
尼は頼朝の流罪が決まると夫とともに所領のある武蔵国比企郡に下り、
娘三人を安達盛長、河越重頼、伊東祐親の子・祐清に嫁がせ、
壻たちに頼朝の世話をさせます。
比企尼の娘がそれぞれ伊豆や武蔵の武士と結婚し

頼朝と関東武士をつなぐ重要な役割を比企尼がはたすことになります。
なかでも安達盛長は、早くから頼朝の側近として仕えました。

また母方の叔父祐範(園城寺法橋)も毎月使者を配所につかわし続け、

乳母の甥で中宮職に従事していた三善康信が都の情勢を頼朝に伝えます。
昔、この辺りは、伊豆半島の北部・田方平野の中央に位置し、
国府三島にほど近い北条氏の所領近くにありました。
当時、狩野川は洪水のたびに
氾濫、分流し
いくつかの中洲をつくっていた所で、蛭ヶ島はその中洲の一つで

蛭が多くいた湿地帯だったといわれています。

寛政二年(1790)、韮山代官江川英毅が、土地を購入し、
その家臣が「蛭ヶ小島」の碑を建立しました。
場所は土地取得上の便宜が優先されたといいますから、

明確な蛭ヶ島の位置は不明です。
清和源氏の血を引く江川氏の先祖は、保元の乱後伊豆に移り、
頼朝から江川の庄賜ったという伝承があります。

蛭ヶ島公園内の説明板

 このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡男、
兵衛佐(ひょうえのすけ)頼朝配流の地といわれている。
 狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の
地名が現存するところから、往時は大小の田島(中洲)が点在し、
そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。
 永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、
治承4年(1180)34才で旗揚げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、
配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。
 
しかし、『吾妻鏡』治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗揚げ)の頃は、
妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に
居住し館内で挙兵準備を整えたとある。

 このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの
約17年間を、ここ蛭ヶ島で過ごしたものといえよう。
 当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした
歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿の著者、
秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、
韮山町の有形文化財に指定されている。
 また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳(しょうとく)碑で、
豆州志稿(ずしゅうしこう)の増訂に当った萩原正夫が、
明治26年に建立したものである。   伊豆の国市


人の背丈を越えるほど大きな石碑です。



頼朝・政子のブロンズ像



 真珠院(頼朝の初恋相手八重姫)   北条政子産湯の井戸・成福寺 
三嶋大社(源頼朝挙兵・頼朝政子の腰掛石)  
伊豆山神社(頼朝と政子が結ばれた地・頼朝政子腰掛石)  
 願成就院・守山八幡宮・北条邸跡  
『アクセス』
「蛭ヶ島公園」伊豆の国市韮山町 伊豆箱根鉄道「韮山」駅下車 徒歩約15分
『参考資料』
「静岡県の歴史」山川出版社 「静岡県の地名」平凡社 
奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 永原慶二「源頼朝」岩波新書
 渡辺保「北条政子」吉川弘文館 
「源頼朝七つの謎」新人物往来社「官職要解」講談社学術文庫 
「平家物語図典」小学館

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 








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伊豆の国市の真珠院には、伊東祐親(すけちか)の娘八重姫が祀られています。
平治の乱に敗れ、蛭ヶ小島に流された頼朝は、韮山の豪族北条時政と
伊豆最大の豪族伊東祐親らに監視されながらも、
年月を重ねるうちに監視もゆるみ、青年となった頼朝は、伊豆や相模の
土豪を引き連れ、狩りを楽しんだり、温泉に湯治に出かけたりしていました。
京都大番役で祐親が留守の間にその娘
八重と知り合い千鶴(せんづる)という男の子を生ませました。

都から三年ほどの大番役の任を終えて帰った祐親は、
この事を知ると「これが平氏の耳に入ったら一大事だ。」と3歳になる
千鶴を川に捨てさせ、八重姫を西伊豆の武士江馬小四郎に嫁がせました。
ついで頼朝も殺そうとしますが、息子の祐清(比企尼の娘婿)が
いち早く頼朝に知らせて窮地を救いました。

祐親は頼朝挙兵後は、大庭景親の軍勢に加わり石橋山合戦で
頼朝軍を敗走させ、次いで、富士川合戦の際には、
維盛軍に加わろうとして源氏軍に捕われ、その後、自害しました。
頼朝は挙兵後、祐清(すけきよ)を家人にしようとしましたが、
祐清は頼朝に敵対した父のことを考えてそれを断り、平家方に合流しています。



真珠院山門

真珠院山門傍の説明板には、次のように書かれています。
「伊東八重姫入水の地
源頼朝との契りの一子「千鶴丸」を源平相克のいけにえにされた伊東祐親の

四女「八重姫」は、悶々日を送る中、遂に意を決し治承四年七月十六日
侍女六人と共に伊東竹の内の別館をぬけ出し、亀石峠の難路に、
はやる心を沈めながら頼朝の(?)身をかくす北条時政館の門をたたきました。
然し既に政子と結ばれていることを知る 邸の門衛は冷たく、幽閉された身の我が館に
帰る術もない八重姫は、あわれ真珠ヶ淵の渦巻く流れに 悲愁の若き「いのち」を
断ってしまいました。悠久八百年、狩野川は幾度か流れを変え、
今は「古川」の小さな流れに閉ざされた悲恋のしのび音を偲ばせてくれます。
尚、当院境内に県下最古の「五輪塔」(1302)並に磨崖仏(1363)
その他宝篋院塔(1335)等々貴重な石造物が安置されています。」

説明板によると、八重姫は北条館に逃れた頼朝に会うために館を訪ねましたが、
既に頼朝と
政子が結ばれていることを知り、真珠ヶ淵の渦巻く
流れの中に身を投げたとのことです。

実際は、頼朝との仲をさかれた八重姫は、江馬小四郎に強引に嫁がされ、
一方、初恋にやぶれ傷心の頼朝の前に現われたのが北条政子というわけです。

真珠院本堂

八重姫御堂





御堂の傍には、八重姫を供養する梯子が供えてあります。
『アクセス』

「真珠院」静岡県伊豆の国市韮山町中条145-2
伊豆箱根鉄道駿豆線伊豆長岡駅から徒歩12分 
『参考資料』
「静岡県の歴史」山川出版社 「静岡県の地名」平凡社
 奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 

現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 永原慶二「源頼朝」岩波新書 
「源頼朝七つの謎」新人物往来社「官職要解」講談社学術文庫 

 

 

 


 



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山木兼隆は治承4年(1180)8月の頼朝挙兵の際、
北条時政率いる軍勢に真っ先に館を攻撃され討死しました。
父信兼との争いがもとで、伊豆に流されていた兼隆は、
宇治川合戦で敗死した伊豆国知行国主源頼政に代わり、新たに国主となった
平時忠(清盛の妻時子の兄)の目代に任命されたのです。

北条時政は娘政子と頼朝との仲を裂くため、平氏一門の山木兼隆に
縁づけようとしましたが、政子はこれを嫌い伊豆山神社(走湯山権現)で
待つ頼朝のもとに走ったという話が伝えられています。

景雲山建長寺派香山寺(臨済宗)は、八牧判官平兼隆開基、

開山は『仏乗禅師伝』によると、
建武2年(1335)3月に亡くなった天岸慧広(仏乗禅師)です。

アーチ型の石造りの山門は、もと韮山県庁の門でした。




中興開基は北条早雲、再中興開基は韮山城主の内藤信成、
寺は幾多の荒廃と再興を繰り返しながら今に至るまで維持され、
境内には、山木兼隆供養塔や兼隆室の念持仏だった
薬師如来坐像が残されています。





山木村の山木判官を祀る兼隆神社は、嘉永六年(1853)の
山木大火で
堂社を焼失し、皇大(こうたい)神社に合祀されました。









山木兼隆館跡・香山寺   
『アクセス』
 「香山寺」 静岡県伊豆の国市韮山町山木868-1 電話: 055-949-2905
 「韮山駅」下車徒歩約35分
『参考資料』
「静岡県の地名」平凡社、2000年
「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年





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