福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

渡辺淳一著 「幻覚」 中央公論新社  2004

2015年11月25日 06時37分29秒 | 書評
 最近、外来に通院してくる95歳の男性患者から書籍を頂く。頂いた書籍は自分なら購入しないジャンルなのでそのうちの何冊かを興味深く読んでいる。

 昨年の今頃読んだ、渡辺淳一著「孤舟」(2010年作) もその中の一冊であった。「定年退職亭主在宅症候群」だったので読んでみた。しかし、この作品は成功したとは言えないように思う。この作品には従来読んだ作品には見られない、退屈さが終始付きまとっていた。
 「孤舟」 渡辺淳一著 集英社(1)「定年退職亭主在宅症候群」をテーマにした作品
 「遠き落日」、「心臓移植」、「花埋み」・・などの初期の作品から受けたシャープな印象とはちょっと違う作品となっていた。ただ、渡辺氏は注目している作家ではあったが、それほど多くの作品を読んでいうわけではないから即断はしたくない。

 2け月ほど前に新たに頂いたのが「幻覚」(2004年作)であった。「幻覚」は主人公が精神科女医であることからちょっと興味を感じて読み始めた。本作は、2003年6月~2004年4月まで読売新聞に連載された。


 この本のあらすじは以下のごとくである。

 美貌の36歳独身の精神科医で病院を経営するH子、医師であった父の病院を引き継いでいる。H子の治療には薬の過剰投与など、一部のスタッフは疑義を持っている。H子は父親との生活をトラウマとして抱えていた。同じ悩みを持つ患者に薬を過剰投与していた。H子は自分の心の悩みを、患者にも投影していた。
 ある年末、患者の一人が突然死し、死因に不審を抱いた家族が病院を訴える。H子はカルテを改竄する。裁判沙汰は週刊誌に取り上げられスキャンダルとなる。H子の自殺を持ってこの小説は終わる。

 舞台設定が精神科領域で、その病院に勤める31歳の独身の男性看護師を語り部としている。著者はいろいろなテーマを散りばめている内容を膨らませているが、ありきたりの、予測できる、主人公の自殺という結末に至る過程をトロトロと記述しているだけのような気がした。
 精神科領域の医療内容の記述にも深みがない。尤も著者は整形外科医であるからこの方面に多くを求めることはできないのかもしれない。

 この作品は半煮え、生煮え的な中途半端な印象が付きまとう。エロチックな場面はほとんどない。これは、新聞連載小説であったこととも関連しているかもしれない。新聞掲載の場合は内容的にも、表現的にも、さらに字数にも最初から枠がはめられているからなのだろう。

 私が読んだのは渡辺氏の初期の作品が多い。私が抱いている氏への印象、作品の素晴らしさへの印象はまだ崩れてはいない。
 今後も機会があれば他の作品を読んでみたいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イヌ・ネコはペットにあらず?2015(13) 猫屋敷化した我が家(3) 雌ネコ避妊手術(2)

2015年11月24日 18時36分07秒 | 近況・報告
<5代目ネコのプチ>
 野良のプチを本年3月初めに我が家に引き取って、11日に避妊手術した。可憐な乙女である、いくら何でもまだだろう、と思っていたがすでに4匹の胎児を孕っていた。「女性を診たら妊娠と思え・・」は内科診断学の中でしつこく学んだ。実際、「絶対ありえません」と頑なに否定する女性の診療でこの教訓が生きたことは10度に余りある。しかし、その業務上の勘は我が家の乙女には働かなかった。術後は隔離も抜糸も不要で、翌日から元気に動き回っていた。

<迷いネコの小さい方>
 「小さい方」は基本は野良ネコの立場である。我が家周辺で2回出産した。GW以降やむなく風除室で保護しているが、これ以上子ネコを産むと困るので本年6月22日に避妊手術した。
 出産して2ケ月余、離乳し始めたとはいえまだ5匹の子ネコに授乳中だったので私は妊娠するはずはないと固く信じきっていたが、開腹してみると既に8匹の胎児を孕っていた。

 人間の場合は授乳中は乳汁分泌ホルモンのプロラクチンの関係で排卵はないはずなので、ネコの場合も妊娠しているはずはない、と私は固く思い込んでいた。全くの思い違いでこの件に関して私は家人から完全にバカにされた。
 確かに、調べてみるとネコの場合、授乳しているかに関係なく、出産後1-2け月で再度妊娠する可能性があるという。人間に関する医学的知識はネコには通用しない世界であった。「小さい方」はしょっちゅう風除室から遁走したが、その隙に孕んだのであろう。私は「小さい方」の旺盛な繁殖力驚いた。

<迷いネコの雪音>
 まだ迷いネコの立場であるが、5月生まれの雪音もそろそろ年頃を迎えるので11月7日に避妊手術を受けた。術後は体幹を全部覆うシャツ状の包帯が巻かれている。まだ傷の一部に問題が残り全部抜糸していないが、まもなく終了する。

 これで我が家の雌ネコに対する不妊手術は終了となる。全部で5匹。いのちを慈しむ私であるが、もうこれ以上は野良ネコを受け入れる気はない。少なくとも内ネコ、外ネコともに私の責任は果たしつつあるように思う。

 今年中に雄ネコ3匹の去勢手術を行う予定である。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イヌ・ネコはペットにあらず?2015(12) 猫屋敷化した我が家(2) 雌ネコ避妊手術(1)

2015年11月23日 06時28分30秒 | 近況・報告
 日本では毎年約17万頭のイヌやネコが殺処分されている。大切ないのちのために避妊・去勢の手術が推奨されている。自治体でも簡単にはイヌやネコを引き取らなくなった。

 私が今まで飼ったネコ、飼っているネコは全て雌ネコだけであった。尤も、今いる子ネコのうち3匹はオスで、私は初めてオス猫と付き合っている。

<初代ネコ>
 半世紀前に死んだ初代のネコは、1952年私が小学1年の時から1964年の高校卒業まで12年余一緒に暮らした。毎年2回出産した。生まれたばかりの子ネコの大部分は私が・・・した。ネコを飼う条件として祖父母から厳しく条件が付けられたからである。子を失った母ネコは数日間狂ったように探し回った。ちょっとした物音にも敏感に反応し探し回った。その姿を見るのは実に辛かった。母ネコは子ネコがいなくなったことに私が関与していることを知っていたと思う。私の手や衣服には子猫の匂いが付いていたはずである。翌日から8ケある乳房がはれ上がり痛がった。私は懺悔の気持ちを持って2週間ほど乳房をマッサージした。私はこんなこともあってネコには頭が上がらない。

<2代目ネコのナンナン>
 初代のネコの後、約20年私はネコに関心を持たなかったが、1989年頃の厳寒の冬の夜、居間の外で3日間鳴き続けたネコをどう追い払うか考えながら窓越しに顔を見た瞬間、目があって私は思わず戸を開けて招き入れた。初代のネコの表情に酷似していたからである。
 この頃は雌ネコには避妊手術を受けさせることが推奨され始めていた。受け入れて数日後に避妊手術を受けさせた。傷を舐められないように首にプラスチックのカラーがつけられた。ナンナンは去勢後スプレイ行為が見られ私を悩ました。雌の因子が少なくなり、相対的に雄の性格が優位になったためだろうか。

<3代目ネコのユウ>
 カラスの様なネコ。2008年生後1ヶ月ほどで横浜で保護した。数ケ月後避妊手術した。乱暴な性格であったが手術後おとなしくなり噛み付く癖もなくなったが、気が小さく臆病になった。手術との関連は分からない。我が家では今孤立している。

<4代目ネコのミーシャ>
 賄いのおばさんが2003年友人から譲り受けた猫で、しばらく日中だけの通い猫であったが、3008年に正式に我が家で引き取った。すでに前の飼い主によって避妊手術がされていた。従順でおとなしく、万事控え目であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イヌ・ネコはペットにあらず?2015(11) 猫屋敷化した我が家(1) 

2015年11月22日 09時15分38秒 | 近況・報告
 我が家には今ネコが7匹いる。
 黒猫の雌「ユウー」は11歳、「小さい方」雌3歳か、その娘「プチ」2歳、小さい方の子供で今年4月に生まれたプチの妹分「雪音」、弟分の「テツ」、「シマ二郎」、「グリフィス」である。
 春から里親募集していたが、無事里子として引き取られたのはオスの「モフ太郎」のみ。噂では漱石の「吾輩はねこ」にちなんだ名前をもらい、とても可愛がられているそうだ。

 「プチ」は昨夏生まれで3匹兄弟であった。餌は与えたが家に入れず、私が作った防寒シェルターやガレージの2Fで健気にも厳寒を乗り切った。一匹「クリ坊」は雪が消える頃呼吸器疾患で死んだ。もう一匹の「ミニズリー」は春先に行方不明となった。仲よかった三兄弟のうち2匹を失なった「プチ」は寂しげに一人で過ごしていた。我が家周辺はネコにとっては危険域であるため見かねて3月に我が家のネコとして受け入れた。「プチ」はノラの時期が長かったが、徐々に慣れ、最近は私を恐れずゆったりと過ごしている。

 「プチ」の母親である「小さい方」は、子供たちとの間にいさかいがあったためか昨年初冬から「プチ」ら子供3匹を置いて姿を消していたが、4月に孕んだ状態で戻ってきた。「なんで孕んで戻ってくるのよ・・・」。こんなことになるなら前回避妊しておくべきだった、と悔やんだ。私どもには責任がないが、これはマズイことになりそうな予感がした。他所に行って欲しいと兵糧攻めにしたが、立ち去らない。

 孕んだ状態での空腹は不憫である。私は賛成でなかったが、家人は見兼ねて勝手口で餌などやっていた。GWの頃「小さい方」の周りで5匹の子ネコがまとわりついていた。危険である、私は渋々風除室を「小さい方」とその子供たちに提供した。

 子供たちはすくすくと育った。集団だから実に活発であり乱暴でもあった。苦労して作った風除室の防寒カーテン、網戸、天井のサンバーザーは破壊された。子供たちははなかなか私どもに慣れない。 
 窓を開けれがすぐに全員が遁走し、鳴き声、排泄物等で隣近所に迷惑をかけるから開けられない。真夏、密閉した風除室は40℃にも達したために居間に入れざるをえなかった。一旦、そんな習慣をつければもう元には戻せない。その後現在に至るまで日中は居間を解放し、夜間は風除室に戻している。
 そんな毎日、これが今の状態である。私は「小さい方」とその子供たちを我が家のネコとして認知していない。できればどっかに行って欲しいと心の隅で念じている。

 加えて言えば、本来我が家の正式なネコであった黒の「ユー」はみんなと折り合いが悪く家出同然状態で、時折勝手口を訪れ餌をもらっている。
 立場上、「プチ」がトップの座についている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徒歩通勤2015(7) 京都府を通過、兵庫県の海岸線を歩行中

2015年11月21日 08時01分40秒 | 徒歩通勤 ウォーキング
 平成13年4月から始めた歩数計「平成の忠孝」の積算開始、約2年6ヶ月かかって19日Σ7644Kmに達し、京都府を通過し、いま兵庫県の海岸線上を歩行している。この間、ざっと計算すると1日8.5Km。

 北海道海岸線には約1年、秋田37日、山形10日かかった。福井県の海岸線403Kmは70日で平均5.7Km/日であっ た。京都の海岸線は302Kmで43日で1日平均7Kmと若干歩行距離が増えた。
 福井、京都府通過時に1日あたりの歩行距離が減ったのは、8月16日の滑落による腰痛臀部痛、シルバーウイーク中の腰痛再悪化、11月に入って浴室の清掃中にも腰痛を再々悪化させたことで、全コースの徒歩通勤ができなかった日が増えたためである。今も、まだ腰痛は多少残っている。かねてから腰痛は年に1-2回程度は生じていて私の健康上の問題点の一つであったが、この夏以降一層頻度が増した。要注意事項である。

 京都市には国際会議場があり、日本内科学会、血液学会等で10回以上も訪れ、私にとって比較的馴染みがあるところである。有名な寺院は訪問してみた。しかし、京都市は県の内陸に位置して、奈良や大阪と近く、府の海岸線を意識したことは今回までほとんどなかった。

 京都府の海というと私にとっては舞鶴のことしか知識がなかった。
 私が3-4歳の頃、実際の記憶はないが同じ歳の従兄弟の一人が海岸で事故に遭い死亡した。この話は何度も聞かされていた。なんでも同じ年に3人従兄弟が生まれればそのうちの一人は欠けるのだ、そんな言い伝えがあると言うことを何度も聞かされながら育った。これは幼少期の話題としてとてもインパクトがあった。もう一人の従兄弟は2年ほど前に死去した、という。結局、最も病弱であった私が70歳まで生き延びてしまった。もう一つの舞鶴の話題は、小学生の頃ラジオのニュースでシベリア等からの引き揚げ船が頻回に入港したことが報じられ、地名をして記憶に残っていただけであった。

 今回、京都府の海岸を意識したのは、歩数計「平成の忠孝」は海岸線の測量のコースを模して歩くものであり、そのコースを地図上で辿り、初めて知ったものである。

 京都の海岸線上には大浦半島、丹後半島があり、その間に挟まれて舞鶴湾がある。松島、広島の厳島と合わせ日本三景と呼ばれる天橋立はこの地にあることを初めて知った。私は日本地理、世界地理ともに真面目に学んだことがなくほとんど知識がない。だから、座右には地図を置き、話題が出るたびに調べている。全国の海岸線の様子については歩数計「平成の忠孝」を通じて遅まきながら勉強中である。

 兵庫県は日本海と瀬戸内海に面している。こんな県は珍しい。他に思いつかない。日本海側の海岸線は110.33Kmと長くはない。無理せず2週間で通過したい。次は鳥取県である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする