福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。



年末年始の思いで:おせち料理、今昔

2014年01月03日 10時08分34秒 | コラム、エッセイ
 12月中旬になると、家内はおせち料理にくるう。といっても作るわけではない。おせちセットの予約注文にである。
 私はあまりおせち料理を好まない。特にホテルやレストランのおせちは私にとっては目が飛び出すほど高額あるが、あまり食欲をそそるものではない。最近の私にとっては正月は単なる暦上の変化でしかないのであるが、マスコミの影響で否が応でも年越しの雰囲気にのせられる。家内はそれに乗って、ほれお歳暮だ、おせちだ、餅つきだ、年賀だと落ち着きないが、とても楽しげである。

 子供のころ大晦日といえば、月末にかけておせち料理作りに大わらわであった。私も動員されてきんとん用の栗むき、サツマイモを裏ごしするなど、年に1度の大掛かりなご馳走作りであった。かまぼこ等は買ったが、卵焼き、きんとん、黒豆、酢の物・・など自宅で作ったものである。立ち上る湯気の中で餅つきもした。当時年末は一家をあげて忙しかったのだ。

 大晦日は早めに風呂を沸かし、下着も取り替え、夕食は何時もより早かった。おせちとは別の、豪華な食事で一年の労をねぎらった。その際には我が家で大切に仕舞い込んでいた輪島塗のご膳セットが用いられた。早めに片付けし、ラジオの紅白、あるいはTVで紅白を観ながらこたつに入ってみかん食べて、そぱすすって除夜の鐘を聞いてから寝た。

 翌朝、元旦は、私は誰よりも先に起きて家の男性を代表した立場で「若水を汲む」と言う習慣に則って井戸水を汲み、神棚に供えた。その後はみんなでおせちを囲んで、正月に訪れる年神様をお迎えした。重箱に詰めたおせち料理への追加はせいぜい吸い物程度で、三日間ほどは母達は殆ど台所に立たなかったから、おせちは女性方の労力軽減に役立っていた様に見えた。

 私の田舎ではお節は大みそかには食べなかった。一方、江戸のころは日が暮れると大晦日にご馳走を食べてどんちゃん騒ぎしていたらしい。その際に食べる料理はお膳だった。わが家の習慣に似ていた。明治5年に太陽暦になってから一日の始まりは午前0時となったが、その前の太陰暦では太陽が沈むと一日が終わる。要するに、大晦日の夜はもう次の日の始まりで、新年の始まりであったからおせち料理を食べた、ということ。

 というわけで、おせちは女性の労力軽減にあるのだ、と信じて疑わない私は、新年の三が日は家内が取り寄せたおせちを黙々とつついている。確かに、集まって来る客人にも手が付いていないおせちの重箱を出せば一応歓迎の料理になる。そう考えればおせち料理のセットは便利である。

 一体、何時頃からおせち料理はセット品を買う様になったんだろうか。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 
徒歩通勤2014(1)歩数計から見た現在位置 | トップ | 

2014年(1)少子高齢化の先進国であるわが国の医療社会... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラム、エッセイ」カテゴリの最新記事