砥部焼(とべやき)は、愛媛県砥部町を中心に作られる陶磁器で、食器、花器等の作品が多いです。
当時の大洲藩の藩主の命により、1777年に白地に藍色の焼き物作りに、成功したと言われています。
しかし工藤氏が砥部に移り住んだ頃は、窯場は衰退しており、砥部焼きが生き残る為には、都市生活者が
使う新しい食器を作る必要に迫られていました。
その中で工藤氏が入所した、梅野製陶所(梅山窯)では新しい食器の創造に向けて努力し、魅力ある
食器を完成させ、砥部焼は食器の産地として注目される様になります。
特にその中心に成り、活躍した人物が、工藤省冶氏です。
1) 工藤省治(くどう しょうじ): 1934年(昭和9) ~
① 経歴
) 青森県に生まれます。生家は焼き物とは関係ないそうです。
岩手県水沢高等学校卒業後、1950年 札幌美術学院に入学し、1955年に東京阿佐ヶ谷美術
研究所で絵画を学びます。
1957年 愛媛県砥部町の梅野製陶所に入所、そのまま砥部に移り住みます。
(絵が描ける所ならば、何処の窯場でも良かったのですが、縁あって砥部にしたそうです。)
同所に勤務しながら、「春秋窯」を築き、絵付けの仕事を手掛けます。
) 1963年 東京日本橋丸善での、「第一回今日のクラフト展」に「染付けによる卓上食器」を招待
出品します。
1964年 クラフトセンター砥部焼展に、「染付菊文鉢」を出品し、クラフトセンター賞の銀賞を
受賞します。
1966年 日本陶磁器輸出デザイン展に、「鉄線巻赤線コーヒーセット」を出品します。
その後も、イタリア国際陶芸展、現代日本新人作家展、国際デザインコンペティションなどに
出品し、数々の賞を受賞します。
) 1974年 陶磁器研究工房「春秋窯」を設立します。以後「東京・大阪ヤマギワ日本のあかり展」、
愛媛の陶芸展、日本陶芸展、国際工芸デザイン交流展(金沢市)などに出品し、
京都、岩手県水沢市、愛媛県松山市、大阪などで度々個展を開催しています。
② 工藤省冶しの陶芸
) 指導者として: 砥部焼を新しい時代に即応させる為、若い陶工や小窯元の経営者を集め
「陶和会」を組織します。この会は後に砥部焼に大きな影響を与えます。
即ち、戦争の影響で、轆轤技術が未熟であった若者に、徹底的に轆轤を訓練させます。
同時に、釉薬とデザインの研究や、東京や京都の展示会や他の窯場へ出向く等の勉強を重ね、
産地全体のレベルの向上を果たします。
a) 「四国物つくり会」の結成: 大阪万博を契機として再度クラフト運動が盛り上がります。
地元四国のクラフトマンを集め、情報の交換や交流を深める会を設立します。
) 初期の作品: 「梅山窯」時代の作品で、砥部呉須(二酸化マンガンと鉄に酸化コバルト、
少量のニッケルの混合物)と呼ばれる、古染付風の絵の具を荒土の胎土に塗り、力強い
作品に成っています。
モチーフは、単純な線を基本に、格子、櫛目、笹絵などの文様や、刷毛で一撫でする呉須巻、
鉄巻などがあります。作品として、「染付菊文組鉢」(1964)、「呉須巻櫛目唐草文壺」(1963)
「呉須赤線細口花生」(1965)などです。
) 薺(ナズナ)手の作品: 薺とは春の七草の一つで、これに似た文様を薺手と呼びます。
古典の再発見によって開発された作品で、「梅山窯」の定番の作品と成っています。
「染付唐草文・花文・呉須巻鉢」(1973~1983)、「染付草花文組鉢」(1978)、「染付唐草文甕」
(1979)等があります。
) 唐草シリーズの作品: 中近東を訪問した際に、ペルシャ唐草文(唐草文の発祥地)陶器を
見てその美しさと由来に感動を覚え、砥部の磁器に再現したいと熱望し、独自の唐草文を
開発します。呉須の濃淡や強弱などの変化を付け、大胆なタッチで筆描きしています。
そして数通りのパターンに納める事に成功します。時には、呉須だけでなく赤線を加え
華やかさを演出しています。今では、この唐草文が砥部焼のシンボルとも成っています。
作品としては、「染付唐草文壺」(1975)、「染付唐草文大皿」(1977)、「染付唐草文筒」
(1981)などがあります。いずれも正方形4個で一つの唐草文を構成し、その文様が器全体に
施されています。
) 白磁の作品も手掛けています。 李朝の白磁の美に魅せられ、砥部の土での白磁を作ります。
「白磁鶴首花生」(1960)、「白磁壺」(1966)、「白磁柘榴(ざくろ)文壺」(1978)などの作品です。
次回(加藤達美氏)に続きます。
当時の大洲藩の藩主の命により、1777年に白地に藍色の焼き物作りに、成功したと言われています。
しかし工藤氏が砥部に移り住んだ頃は、窯場は衰退しており、砥部焼きが生き残る為には、都市生活者が
使う新しい食器を作る必要に迫られていました。
その中で工藤氏が入所した、梅野製陶所(梅山窯)では新しい食器の創造に向けて努力し、魅力ある
食器を完成させ、砥部焼は食器の産地として注目される様になります。
特にその中心に成り、活躍した人物が、工藤省冶氏です。
1) 工藤省治(くどう しょうじ): 1934年(昭和9) ~
① 経歴
) 青森県に生まれます。生家は焼き物とは関係ないそうです。
岩手県水沢高等学校卒業後、1950年 札幌美術学院に入学し、1955年に東京阿佐ヶ谷美術
研究所で絵画を学びます。
1957年 愛媛県砥部町の梅野製陶所に入所、そのまま砥部に移り住みます。
(絵が描ける所ならば、何処の窯場でも良かったのですが、縁あって砥部にしたそうです。)
同所に勤務しながら、「春秋窯」を築き、絵付けの仕事を手掛けます。
) 1963年 東京日本橋丸善での、「第一回今日のクラフト展」に「染付けによる卓上食器」を招待
出品します。
1964年 クラフトセンター砥部焼展に、「染付菊文鉢」を出品し、クラフトセンター賞の銀賞を
受賞します。
1966年 日本陶磁器輸出デザイン展に、「鉄線巻赤線コーヒーセット」を出品します。
その後も、イタリア国際陶芸展、現代日本新人作家展、国際デザインコンペティションなどに
出品し、数々の賞を受賞します。
) 1974年 陶磁器研究工房「春秋窯」を設立します。以後「東京・大阪ヤマギワ日本のあかり展」、
愛媛の陶芸展、日本陶芸展、国際工芸デザイン交流展(金沢市)などに出品し、
京都、岩手県水沢市、愛媛県松山市、大阪などで度々個展を開催しています。
② 工藤省冶しの陶芸
) 指導者として: 砥部焼を新しい時代に即応させる為、若い陶工や小窯元の経営者を集め
「陶和会」を組織します。この会は後に砥部焼に大きな影響を与えます。
即ち、戦争の影響で、轆轤技術が未熟であった若者に、徹底的に轆轤を訓練させます。
同時に、釉薬とデザインの研究や、東京や京都の展示会や他の窯場へ出向く等の勉強を重ね、
産地全体のレベルの向上を果たします。
a) 「四国物つくり会」の結成: 大阪万博を契機として再度クラフト運動が盛り上がります。
地元四国のクラフトマンを集め、情報の交換や交流を深める会を設立します。
) 初期の作品: 「梅山窯」時代の作品で、砥部呉須(二酸化マンガンと鉄に酸化コバルト、
少量のニッケルの混合物)と呼ばれる、古染付風の絵の具を荒土の胎土に塗り、力強い
作品に成っています。
モチーフは、単純な線を基本に、格子、櫛目、笹絵などの文様や、刷毛で一撫でする呉須巻、
鉄巻などがあります。作品として、「染付菊文組鉢」(1964)、「呉須巻櫛目唐草文壺」(1963)
「呉須赤線細口花生」(1965)などです。
) 薺(ナズナ)手の作品: 薺とは春の七草の一つで、これに似た文様を薺手と呼びます。
古典の再発見によって開発された作品で、「梅山窯」の定番の作品と成っています。
「染付唐草文・花文・呉須巻鉢」(1973~1983)、「染付草花文組鉢」(1978)、「染付唐草文甕」
(1979)等があります。
) 唐草シリーズの作品: 中近東を訪問した際に、ペルシャ唐草文(唐草文の発祥地)陶器を
見てその美しさと由来に感動を覚え、砥部の磁器に再現したいと熱望し、独自の唐草文を
開発します。呉須の濃淡や強弱などの変化を付け、大胆なタッチで筆描きしています。
そして数通りのパターンに納める事に成功します。時には、呉須だけでなく赤線を加え
華やかさを演出しています。今では、この唐草文が砥部焼のシンボルとも成っています。
作品としては、「染付唐草文壺」(1975)、「染付唐草文大皿」(1977)、「染付唐草文筒」
(1981)などがあります。いずれも正方形4個で一つの唐草文を構成し、その文様が器全体に
施されています。
) 白磁の作品も手掛けています。 李朝の白磁の美に魅せられ、砥部の土での白磁を作ります。
「白磁鶴首花生」(1960)、「白磁壺」(1966)、「白磁柘榴(ざくろ)文壺」(1978)などの作品です。
次回(加藤達美氏)に続きます。