1) 伝統的窯元の当主について。
現代の陶芸家の中には、一代限りの陶芸家ではなく、第十数代窯元を名乗る名家出身の人も多く
存在します。それらの人は代々同じ名前を使っています。一般に江戸時代に藩の御用窯として出発し、
子供や兄弟などが、その後継者に成る事が多いのですが、藩窯が廃止され経営的に困窮した頃には、
血縁関係の無い人が、後継者に成った場合もあった様です。
名家と言えば、坂倉新兵衛、坂高麗左衛門、大樋長左衛門、三輪休雪、坂田泥華、永楽善五郎、
田原陶兵衛、楽吉左衛門、中里太郎右衛門、そして酒井田柿右衛門などの名前が連綿と続いています。
彼らは、単に昔より受け継がれた伝統工芸を固守するのではなく、伝統を重んじつつ現代に通用する
新たな試みや、作品を作り続けています。今回からはこの様な人々を取り上げたいと思っています。
2) 九代大樋長左衛門(おおひ ちょうざえもん): 1901年(明治34)~1986年(昭和61) 大樋焼の窯元。
① 大樋焼とは、加賀で唯一の御茶碗師として、連綿と続いている名家です。
現在では2011年に文化勲章を受章した、十代目の長左衛門が当主を務めています。
) 初代長左衛門(1631~1712)は、河内国土師村出身で、1656年京都に出て、二条瓦町に居住し、
楽家四代一入のもとで楽焼を学んだといわれています。
1666年 加賀藩の茶道奉行として仕官した、裏千家四世仙叟宗室に同道し、加賀国河北郡大樋村
(現金沢市大樋町)に窯を築き、屋名を荒屋と名乗り、茶道具を製作し始めます。
仙叟宗室が帰京の際、藩主に願い出て、加賀国に住むことを許され、陶器御用を勤め、地名の
「大樋」姓とすることを許されま。
) 二代目長左衛門(初代に子 1686~1747)。三代長左衛門(1728~1802)。4代長左衛門
(1758~1839)。 初代に次ぐ名工とされる、五代長左衛門(1799~1856)は大樋焼の
中興の祖といわれ、食器も焼き始め、従来の飴釉に加えて黒釉も用いるようになります。
六代長左衛門(1829~1856)。 七代長左衛門(1834~1894五代の三男、6代長左衛門の弟)。
) 幕末から明治の激動期に、加賀藩の保護を失った大樋焼は、七代目の後を継ぐ人も無く
一時廃業を迎えます。後を継いだのは、弟子で有ったと言われています。
八代長左衛門(1851~1927)(七代長左衛門の弟子、異説あり)。
九代長左衛門(1901~1986)(八代の長男)。
十代長左衛門(1927~)(九代長左衛門の長男)。1987年 十代大樋長左衛門襲名。
② 経歴
石川県金沢市で、大樋焼八代大樋 長左衛門宗春の長男 として生まれます。
1917年 石川県立工業学校窯業科を卒業後、家業の作陶に励みます。
1920年 農務省工芸展で「透かし彫鉢」が初入選を果たし、以後数回入選を重ねます。
1923年 金沢市東山公園傍に、工房を設け芳土庵と名付けます。
1934年 大樋焼本家窯元九代目を襲名します。
③ 九代大樋長左衛門の陶芸
中興の祖である五代勘兵衛に匹敵する名工といわれています。
) 大樋焼きの特徴は、手捏ね(てづくね=手捻り)による楽焼です。
赤楽に似て赤黄色の飴釉が掛かっています。
茶碗に関しては、今日まで、轆轤や型などを全く使わずに成形しているそうです。
) 抹茶茶碗
作品は、丸みを帯びて、口縁がやや内側に抱え込んだ形が多く、高台は小振りでつつましく
おだやかさが感じられる作品です。
a) 大樋釉とも呼ばれる飴釉で、初代より使われている代表的な釉薬です。
鉄釉を酸化焼成した物で、京の楽の本家の黒釉に対する遠慮が有った為と言われています。
(現在では、黒楽も作っています。) 飴釉がたっぷり掛けられ、胴に垂れ幕の様に流れ
ています。(飴釉と言うより、金色の結晶が出る「そば釉」の様に見えます。)
作品例として「飴朱釉茶碗」(高8.8 X 径12.5 ・高台径5.5 cm) (1975)など
b) 黒幕釉、黒錆釉: 黒楽釉で釉が流れ落ちて景色と成っている物を、黒幕釉と呼び、
黒釉が錆色を帯び、ややかせた膚に成った物を黒錆釉と言います。
作品としては、「黒幕釉茶碗」(高8 X 径12.5・高台径5cm)(1978)
「黒錆釉茶碗」(高9.5 X 径12.5・高台径5.3cm) (1964)などがあります。
c) 絵付けのされた茶碗も作っています。
「富士絵数印黒茶碗」(高8.5 X 径12・高台径4.8cm) (1965)
黒楽の上に、雪を被った富士山が描かれている作品です。
次回(大樋長左衛門2)に続きます。
現代の陶芸家の中には、一代限りの陶芸家ではなく、第十数代窯元を名乗る名家出身の人も多く
存在します。それらの人は代々同じ名前を使っています。一般に江戸時代に藩の御用窯として出発し、
子供や兄弟などが、その後継者に成る事が多いのですが、藩窯が廃止され経営的に困窮した頃には、
血縁関係の無い人が、後継者に成った場合もあった様です。
名家と言えば、坂倉新兵衛、坂高麗左衛門、大樋長左衛門、三輪休雪、坂田泥華、永楽善五郎、
田原陶兵衛、楽吉左衛門、中里太郎右衛門、そして酒井田柿右衛門などの名前が連綿と続いています。
彼らは、単に昔より受け継がれた伝統工芸を固守するのではなく、伝統を重んじつつ現代に通用する
新たな試みや、作品を作り続けています。今回からはこの様な人々を取り上げたいと思っています。
2) 九代大樋長左衛門(おおひ ちょうざえもん): 1901年(明治34)~1986年(昭和61) 大樋焼の窯元。
① 大樋焼とは、加賀で唯一の御茶碗師として、連綿と続いている名家です。
現在では2011年に文化勲章を受章した、十代目の長左衛門が当主を務めています。
) 初代長左衛門(1631~1712)は、河内国土師村出身で、1656年京都に出て、二条瓦町に居住し、
楽家四代一入のもとで楽焼を学んだといわれています。
1666年 加賀藩の茶道奉行として仕官した、裏千家四世仙叟宗室に同道し、加賀国河北郡大樋村
(現金沢市大樋町)に窯を築き、屋名を荒屋と名乗り、茶道具を製作し始めます。
仙叟宗室が帰京の際、藩主に願い出て、加賀国に住むことを許され、陶器御用を勤め、地名の
「大樋」姓とすることを許されま。
) 二代目長左衛門(初代に子 1686~1747)。三代長左衛門(1728~1802)。4代長左衛門
(1758~1839)。 初代に次ぐ名工とされる、五代長左衛門(1799~1856)は大樋焼の
中興の祖といわれ、食器も焼き始め、従来の飴釉に加えて黒釉も用いるようになります。
六代長左衛門(1829~1856)。 七代長左衛門(1834~1894五代の三男、6代長左衛門の弟)。
) 幕末から明治の激動期に、加賀藩の保護を失った大樋焼は、七代目の後を継ぐ人も無く
一時廃業を迎えます。後を継いだのは、弟子で有ったと言われています。
八代長左衛門(1851~1927)(七代長左衛門の弟子、異説あり)。
九代長左衛門(1901~1986)(八代の長男)。
十代長左衛門(1927~)(九代長左衛門の長男)。1987年 十代大樋長左衛門襲名。
② 経歴
石川県金沢市で、大樋焼八代大樋 長左衛門宗春の長男 として生まれます。
1917年 石川県立工業学校窯業科を卒業後、家業の作陶に励みます。
1920年 農務省工芸展で「透かし彫鉢」が初入選を果たし、以後数回入選を重ねます。
1923年 金沢市東山公園傍に、工房を設け芳土庵と名付けます。
1934年 大樋焼本家窯元九代目を襲名します。
③ 九代大樋長左衛門の陶芸
中興の祖である五代勘兵衛に匹敵する名工といわれています。
) 大樋焼きの特徴は、手捏ね(てづくね=手捻り)による楽焼です。
赤楽に似て赤黄色の飴釉が掛かっています。
茶碗に関しては、今日まで、轆轤や型などを全く使わずに成形しているそうです。
) 抹茶茶碗
作品は、丸みを帯びて、口縁がやや内側に抱え込んだ形が多く、高台は小振りでつつましく
おだやかさが感じられる作品です。
a) 大樋釉とも呼ばれる飴釉で、初代より使われている代表的な釉薬です。
鉄釉を酸化焼成した物で、京の楽の本家の黒釉に対する遠慮が有った為と言われています。
(現在では、黒楽も作っています。) 飴釉がたっぷり掛けられ、胴に垂れ幕の様に流れ
ています。(飴釉と言うより、金色の結晶が出る「そば釉」の様に見えます。)
作品例として「飴朱釉茶碗」(高8.8 X 径12.5 ・高台径5.5 cm) (1975)など
b) 黒幕釉、黒錆釉: 黒楽釉で釉が流れ落ちて景色と成っている物を、黒幕釉と呼び、
黒釉が錆色を帯び、ややかせた膚に成った物を黒錆釉と言います。
作品としては、「黒幕釉茶碗」(高8 X 径12.5・高台径5cm)(1978)
「黒錆釉茶碗」(高9.5 X 径12.5・高台径5.3cm) (1964)などがあります。
c) 絵付けのされた茶碗も作っています。
「富士絵数印黒茶碗」(高8.5 X 径12・高台径4.8cm) (1965)
黒楽の上に、雪を被った富士山が描かれている作品です。
次回(大樋長左衛門2)に続きます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます