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わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸155(陶芸美術団体の系譜1)

2012-07-04 21:40:47 | 現代陶芸と工芸家達

明治時代までの陶磁器製造は、窯元を中心にした工房形式に成っていて、工房では、成形(轆轤挽き

など)、絵付け、焼成と分業に成っており、窯元が全体を指揮監督の立場に成っています。

明治時代に開催された、内国博覧会などの展覧会に出品できるのは、窯元(工房主)に限られていました。

焼き物に従事する職人も、その職人の長男が家業を引き継ぐ事が一般的な時代であり、特別な数奇屋か

金持ちの人が、趣味で焼き物を行う程度で、一般人が入り込む余地はありませんでした。

その様な世界に、美術家を育てる為の官立(公立)の美術学校が設立される様になります。

1) 東京美術学校の創設

  1887年(明治20年)に東京府に初の官立の美術専門学校が設立されます。

 ① 目的は、美術教員や美術家の養成機関であり、当初は伝統的日本美術の保護を目的としたが、

   その後、西洋画・図案・彫塑など西洋美術の教育も行うようになります。

 ② 1886年(明治19年)~1887年に文部省図画取調掛委員の岡倉天心とフェノロサは欧米の美術教育

   全般の調査旅行を行います。2人の報告に基き1887年10月、勅令により図画取調掛および

   工部大学校内「工部美術部」を統合・改編して東京美術学校が設立されます。

   尚、開校は1889年2月で初代校長は、取調掛委員長の濱尾新氏で事務的な仕事をし、実質的には

   第2代校長として就任した、岡倉天心(覚三)が事実上の初代校長になります。

  ) 修業年限2年で基礎実技と学科を担当する「普通科」と、3年で専門科目を担当する「専修科」が

      設置されます。教官のほとんどは、日本画家などの伝統的美術家達で、占められていました。

  ) 1893年に第1回卒業式を挙行し、横山大観らの卒業生を送り出します。

     1896年 伝統美術の他、西洋画科と図案科が新設されます。

     西洋画科には、黒田清輝、藤島武二氏達が、図案科には、福地復一・横山大観・本多天城氏

     らが教官に就任しています。

     従来の窯元制度では、絵付をする者が一段上に見られていました。その為、窯元の子弟は

     美術学校で絵画やデザイン科を専攻する様になります。

  ) 1898年岡倉天心の運営方針に批判が集まり、「美校騒動」が表面化、岡倉を始めとして

     橋本・横山・下村観山・菱田春草ら多数の教官が退任し、日本美術院を結成します。

     1901年~1932年まで校長として在任した正木直彦の下で、校制改革(1905年)が行われ、

     これ以降はほぼ制度・組織は安定します。

     1929年には、美術学校が蒐集した美術品を展示するための「陳列館」(現東京藝術大学大学

     美術館旧館)が建設されます。

   ) 第二次世界大戦後の学制改革により、「新制東京芸術大学」が発足し、1952年最後の

     卒業式となり廃校となります。

   ) 東京美術学校の卒業生が進出してくると、職人芸とみなされていた成形、轆轤、絵付け、

      焼成を個人で行う様になり、以下に紹介する展覧会などに、個人で出品する様になります。

2) 日本美術展覧会(通称「日展」)の創設

   「日展」は日本を代表する美術展覧会の1つで、官展の流れを汲み、現在は公益社団法人日展が

    主催しています。

  ① 文部省美術展覧会(初期文展):1907年~1918年   

    明治中期、日本画の旧派の「日本美術協会」と、新派の「日本美術院」の対立が明らかになり、

    更に黒田清輝の帰朝によって、西洋画も旧派の「明治美術会」と、新派の「白馬会」の対立が

    発生します。これらを調停する目的で、文部省が国家主導の大規模な公募展、 即ち、官展として

    開始したのが「文部省美術展覧会」(文展)です。以後名称を帝展、新文展、日展と変化して

    行きます。1907年(明治40年)に第一回展が 開催 されます。

    1916年(大正5年)、第10回より特選および推薦の制度が設けられ、審査を経ることなく出品

    出来る特権を与えられます。これを「無鑑査」と言い、他の展示会(公募展示)に無い特徴で、

    「帝国美術院」にも継承されます。

   a) 「二科展」の創設

     1913年(大正2年) 文展に於ける洋画部門の評価方法と、日本画との評価方法の違いから、

     不満が発生し、文展が分裂し「二科展」が創設されます。

   b) 1914年(大正3年) 横山大観が文展の審査員を外されたことを遠因として、「日本美術院」が

      再興します。これを契機として、大正以降は美術団体が乱立する様になります。

  ② 帝国美術院展覧会(帝展):1919年~1935年     

     1919年(大正8年) 「帝国美術院」の発足に伴い、「帝国美術院展覧会」(帝展)と改称します。

     1926年 「美術工芸」部門(陶磁器・漆芸・染色・金工)が新設され、陶芸作品も出品出来る

     様になります。

  ③ 文部省美術展覧会(新文展):1936年~1944年

     1935年(昭和10年)に時の文部大臣・松田源治が、挙国一致体制強化の為に制度変更を敢行し、

     これに伴う増員により美術界は紛糾します。その結果展覧会は芸術院より分離され再び

     「文部省展覧会」(新文展)と改称します。

  ④ 日本美術展覧会(日展):1946年~

    終戦後、国の管轄から離れ、民間の公益社団法人「日展」として出発します。

    1948年 「書」の部門が加わり、毎年秋に国立新美術館で公募展を開催し、団体展中で

    最多の入場者数を獲得しています。又多くの陶芸家が、「日展」を舞台に作品を発表しています。

    2007年から上野の都美術館より六本木の国立新美術館に会場を移し、開催されています。

 ◎  尚、当ブログの現代陶芸23(日展について)(2012-01-20 )でお話してありますので、

     興味のある方は、参照して下さい。

次回(陶芸美術団体の系譜2)に続きます。

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