吉田織部(1544~1615年): 美濃の茶人、織部流茶道の開祖
信長の美濃平定により、信長に従い本能寺の変後は秀吉に仕え、山城西岡に三万五千石を与えられ、
更に、秀吉没後には徳川家に茶人として仕える事に成ります。
① 利休との出会い
1582年頃、利休と知り合い、利休が没する直前までの10年間を、門下生(弟子)として、
密接な関係を保ち、茶の湯を学びます。この10年間は利休が「新しい茶の湯」作り上げた
時期でもあります。
② 茶の湯の名人(多門院日記)
織部の名前が世に高まるのは、利休没後で1599年には、「茶の湯の名人」と称される様に成ります。
又、駿府で徳川家康に、点茶する事により、「千利休宗易が貫首弟子」で「点茶の技、当時其の
右に出る者なし」と、「徳川実記」に記されています。
1610年には、二代将軍秀忠に茶法を伝授しています。
③ 織部のお茶
) 将軍や諸大名などの武家を対象とした、茶の湯と考えられます。
江戸初期の頃は、茶の湯が大名達の必須の教養とみなされ、武家儀礼の一つとされていました。
) 「数奇屋御成」の様式を作り出します。
従来、御成門(正門)から、茶室に招き入れていましたが、新たに「数奇屋(茶室)門」を設け、
飛び石伝いに、庭を通り直接茶室に入り、茶が供された後「給仕口」から出て、「鎖の間」で、
饗応(飲み食い)が行われ、終了後は「数奇屋門」から帰る様式にします。この様式の利点は、
a) 大勢のお供(家来)等を必要とせず、「お忍び」の形が取れる事です。
それ故、度々訪問する事が出来た点です。
b) 迎える亭主も、負担の軽減が計られます。
) 利休好みとの決別
a) 織部は利休と趣の異なる茶室を作ります。利休が究極の「侘び」を追求したのに対し、
より明るい茶を追求して行きます。即ち、利休の茶室「待庵(たいあん)」が窓を少なくし、
光の入るのを制限したのに対し、織部の茶室の「八窓庵」では、窓を多く取り、光を多く
取り入れ、明るい茶室にしています。
b) 更に、茶室に相伴席(しょうばんせき)を設け、身分や秩序を重んじる、配慮もしています。
c) 利休の懐石では、質素な一汁三菜が基本でしたが、織部は品数を増やし、更に見た目も
華やかな食や、食器(向付など)を使用しています。
④ 織部の切腹
1615年4月、織部の重臣木村宗喜が、京都で捕らえられます。罪状は家康、秀忠の暗殺を
企てた事とされています。この企てに加わっていたとして、織部に切腹の命が下されます。
織部は何ら申し開きをせず、京の木幡の屋敷で、切腹して果てます。享年73歳でした。
実際に織部が暗殺を企てたかどうかは、不明ですが、家臣の引き起こした事件の責任を取ら
されたのかも知れません。
尚、次回は「織部焼」についてお話する予定です。
信長の美濃平定により、信長に従い本能寺の変後は秀吉に仕え、山城西岡に三万五千石を与えられ、
更に、秀吉没後には徳川家に茶人として仕える事に成ります。
① 利休との出会い
1582年頃、利休と知り合い、利休が没する直前までの10年間を、門下生(弟子)として、
密接な関係を保ち、茶の湯を学びます。この10年間は利休が「新しい茶の湯」作り上げた
時期でもあります。
② 茶の湯の名人(多門院日記)
織部の名前が世に高まるのは、利休没後で1599年には、「茶の湯の名人」と称される様に成ります。
又、駿府で徳川家康に、点茶する事により、「千利休宗易が貫首弟子」で「点茶の技、当時其の
右に出る者なし」と、「徳川実記」に記されています。
1610年には、二代将軍秀忠に茶法を伝授しています。
③ 織部のお茶
) 将軍や諸大名などの武家を対象とした、茶の湯と考えられます。
江戸初期の頃は、茶の湯が大名達の必須の教養とみなされ、武家儀礼の一つとされていました。
) 「数奇屋御成」の様式を作り出します。
従来、御成門(正門)から、茶室に招き入れていましたが、新たに「数奇屋(茶室)門」を設け、
飛び石伝いに、庭を通り直接茶室に入り、茶が供された後「給仕口」から出て、「鎖の間」で、
饗応(飲み食い)が行われ、終了後は「数奇屋門」から帰る様式にします。この様式の利点は、
a) 大勢のお供(家来)等を必要とせず、「お忍び」の形が取れる事です。
それ故、度々訪問する事が出来た点です。
b) 迎える亭主も、負担の軽減が計られます。
) 利休好みとの決別
a) 織部は利休と趣の異なる茶室を作ります。利休が究極の「侘び」を追求したのに対し、
より明るい茶を追求して行きます。即ち、利休の茶室「待庵(たいあん)」が窓を少なくし、
光の入るのを制限したのに対し、織部の茶室の「八窓庵」では、窓を多く取り、光を多く
取り入れ、明るい茶室にしています。
b) 更に、茶室に相伴席(しょうばんせき)を設け、身分や秩序を重んじる、配慮もしています。
c) 利休の懐石では、質素な一汁三菜が基本でしたが、織部は品数を増やし、更に見た目も
華やかな食や、食器(向付など)を使用しています。
④ 織部の切腹
1615年4月、織部の重臣木村宗喜が、京都で捕らえられます。罪状は家康、秀忠の暗殺を
企てた事とされています。この企てに加わっていたとして、織部に切腹の命が下されます。
織部は何ら申し開きをせず、京の木幡の屋敷で、切腹して果てます。享年73歳でした。
実際に織部が暗殺を企てたかどうかは、不明ですが、家臣の引き起こした事件の責任を取ら
されたのかも知れません。
尚、次回は「織部焼」についてお話する予定です。
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