大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

智積院庭園と相国寺塔頭慈照院庭園

2019-05-15 | 

京都七条通りと東大路通りが交差するところに智積院の総門があり、バスで前を通るといつも通行止めの柵があり、いつ入れるのだろうと思っていた。智積院を冬の非公開文化財特別拝観最終日に訪れた。本降りの雨で京都駅からタクシーで行く。総門前で停まるかと思ったら、100mほど南に下がった所に大きな入口があり、御朱印受付所前で停めてくれた。境内には何時でも入れるようだ。
 
 
 
智積院の山号は五百仏山(いおぶさん)、寺号を根来寺智積院といい、真言宗智山派寺院で宗祖弘法大師空海、慶長三年 (1598)、中興は興教大師覚鑁、大本山は成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院で高幡金剛寺、大須観音寶生院を別格本山としている。真言宗智山派総本山を訪ねるのが最後になってしまった。大書院の障壁画「楓図」「桜図」のオリジナルは収蔵庫にあり、祥雲禅寺の客殿を飾っていたものだという。祥雲寺は、文禄二年(1593)豊臣秀吉が早世した鶴松の菩提を弔うために寺院で、秀吉の歿後、徳川家康によって智積院に与えられたが、天和二年(1682)の火災により焼失、一部残ったのが智積院障壁画として現存している。智積院の収蔵庫は湿度、空調完備が完璧で、この建物には驚かされた。
 
 
智積院庭園は、第七世の運敞僧正によるもので、中国廬山を模って造られた池泉式庭園で、国の名勝に指定されている。
 
 
中庭も池泉式庭園かと想ったら、雨が溜まった大きな水たまりだった。この水たまりを残して置けば、この水は禅思想の何とかだと講釈する人が出てきそうだなと想いながら水溜まりを見ていた。
相国寺塔頭慈照院が特別拝観になっているというので寄った。暮れに相国寺に来たとき、慈照院、慈雲院への道に「お寺にご用の方以外のご利用は固くお断わり申し上げます」の標識があり桂宮西ノ墓地や東ノ墓地の前にも行くに躊躇したが、今回はこの横道の奥にある慈照院に向かった。
 
慈照院は当初は大徳院と称したが、 延徳二年(1490)に室町幕府八代将軍足利義政の香華所となり、義政の法号から慈照院と改称したという。山門を入ると白砂と岩組のある前庭がある。スッキリした庭でいかにも禅寺らしく、客殿前の庭に期待が膨らむ。
 
 
 
客殿というか本堂前の庭を見て驚いた。手入れの悪い庭の真ん中に太い松が一本、雑然とした感じで、苔も剥がれている。もっとも、これから新芽を伸ばして選定前で訪れた時期が悪かったのかも知れない。慈照院の特別拝観は写真禁止であったが、「朝鮮通信使関連資料」が公開されていた。二十九年ぶり正徳元年(1711)、徳川家宣の将軍職襲封を祝賀のための朝鮮通信使で江戸期第八次の通信使にあたる。扇面、梅花帖、題画詩などを張り付けた屏風の「朝鮮書画貼交小屏風」や通信使に随行した慈照院の別宗祖縁禅師に宛てた漢詩等を集め四巻に編集した「韓客詞章」などが展示されていた。この第八次の朝鮮通信使に対して新井白石は、朝鮮へ派遣される日本使節が受ける同じ待遇の簡素化と将軍呼称の変更を求めた。応諾したというか、させられた正使趙泰億、福使仁守幹、従事官李邦彦の三使は帰国後、官職削奪、四大門外追放という問責であったという。
 
桂宮西ノ墓地(霊元天皇皇子・文仁親王墓等(京極宮(桂宮)家第七代)墓等)と桂宮東ノ墓地(正親町天皇皇子・智仁親王(八条宮(桂宮)家初代)は当然、立入禁止でした。宮内庁公開資料に平成19年の桂宮西ノ墓地の土塀改築その他費用1千万以上と出ていた。補修費用も大変!!

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