大佗坊の在目在口

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蒲郡 龍台山天桂院

2024-02-19 | 

蒲郡西郡の四大寺の一つと言われている天桂院を訪ねた。


四大寺はいずれも戦国時代初期の東三河の西郡(現蒲郡)の地方小豪族、五井松平氏、上ノ郷久松氏、下ノ郷鵜殿氏、竹谷松平氏の菩提寺で、天桂院は竹谷(たけのや)松平氏の菩提寺になっている。竹谷松平氏は寛政重修諸家譜によれば「左京亮守家は信光君の長男也三河国宝飯郡竹谷に住せしより竹谷の松平と称す」とあり、さらに守家の項に「文亀三年八月七日竹谷にをいて死す法名全裕竹谷の西の岳に葬る男守親のとき永正九年其地の北に一宇を建て龍台院と称しのち清宗に至るまで葬地とす家清がときこの寺を吉田にうつし全栄寺とあらため清昌のとき宝飯郡西郡にうつしのち吉田の天桂院と合わせて一寺とし龍台山天桂院と称す寺をうつすごとに代々の墳墓を改葬す」とあるので、清昌(八代)のとき西郡、今の蒲郡町荒子にある天桂院を建て墳墓を改葬し菩提寺としたことになる。竹谷松平氏初代守家法名全裕が葬られた竹谷の西の岳が判らず尋ねられなかったが、あとで地図に市立塩津中学校グランドの西南端に四基の五輪塔と竹谷松平四代の墓一基、守家(龍台院全裕)・守親(松寿院全孝)・親善(延常院全?)・清善(自得院全保)があり、五輪塔は竹ノ谷松平四代五輪塔として市指定史跡となっていた。竹谷松平氏は松平信光の子守家を初代とする松平氏の庶流で四代清善まで今川氏に仕えていたが、桶狭間で今川義元討死の後、岡崎に戻り松平元康(家康)に仕える。このとき今川氏真は松平側についた松平玄蕃清善妻を含む人質十三人を龍念寺(龍拈寺)前で誅殺して吉田近郷中野新田に埋めた(老津 太平寺から十三本塚へ)。


天桂院は六代家清の妻、久松俊勝の娘で、家康異父同母の妹(久松俊勝と家康の生母、水野氏於大の方の娘)。天正十八年(1590)、夫清善が家康より与えられた采地の武州八幡山に移動中、小田原今井の徳川陣場跡にて他界、その遺言により曹洞宗の寺、福厳寺に葬られたという。寛政家譜に「天正十八年十月十七日逝す、年二十二、月窓貞心天桂院と号す、武蔵国八幡山に葬り、一宇を建て天桂院となづく、のち三河国吉田にうつして其地に改葬す」とある(小田原の福厳寺は後述)。天桂院は夫家清の采地である武州八幡山(本庄市児玉)に葬られたのか、福厳寺に葬られたのかはっきりしないが、蒲郡の龍台山天桂院の竹谷松平氏の墓域中央に夫君六代竹谷松平家清(清寶院殿業雲全霜大居士)と天桂院殿月窓貞心大姉の墓が並んでいる。
竹谷松平家墓域

左(家清墓)  中央(天桂院墓)


法名で判った墓石は六代家清(全霜)の左から五代清宗(全栄)、四代清善(全保)。天桂院から右に七代忠清(勝全)、八代清昌(全達)、九代清直(全通)、十代清当(全参)、十一代義尭(全忠)、十二代義緒(全徳)、十三代義峯(全功)と並ぶ。塀で囲まれた竹谷松平氏墓域の入口に丸の内一引の家紋のある松平家先亡累代諸精霊の墓があった。


寛政家譜に「家紋 丸の内一引 五枚根笹 もとは三葉葵を用う、後嗣はばかりて一引にあらたむ」とある。竹谷松平氏墓域に行く途中に一族の婦女子の墓があった。

 

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