大佗坊の在目在口

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敦賀 永賞寺から来迎寺

2023-06-22 | 

永厳寺から歩いて10分ほどの、大谷吉継の供養塔がある永賞寺に行った。


号は圓通山、曹洞宗の丹波圓通寺の末寺で、開山は天正二年(1574)、丹波圓通寺十四世の住持武山栄文和尚による。門を入ると右側に九輪の石塔があった。この九輪塔が大谷吉継の墳墓と伝わっている。元禄の大火で什物記録、ことごとく焼失して何も残っていないという。

天正十九年領主大谷吉継、寺の諸役を免除し、大谷家の菩提寺にしたという。大谷吉継については、関ケ原で西軍として戦い戦死した武将としか知らなかった。越前敦賀城主でわずか一万石の小大名だとは思わなかった。大谷家の軍勢は何人いたのだろうか。一万石に侍、約八十人程度として、五倍して侍が四百人、城に残した侍が五十名として、残り三百五十人の一族郎党、足軽、雑兵含めて三千五百人程度の軍勢だったのだろうか。関ケ原で東軍・西軍が衝突したのが慶長五年九月十五日に大谷刑部少輔吉隆(吉継)は戦場で自刃した。この時、介錯したのが家臣湯浅吾助隆貞だと云われている。吾助は吉隆の首を隠した後、藤堂高虎の甥、藤堂高刑に討取られたという。「慶長五年東照宮、石田三成ガ党ヲ御成敗アリテ諸侯領地ヲ没収セラレ及減禄セラルル者悉クコレヲ采録ス」という文化十一年草稿完成の廃絶録によると、九月十五日、関ケ原の戦場で自害又は討死した西軍武将は越前敦賀大谷吉隆、日向佐土原島津豊久、越前安居戸田重政、摂州茨城川尻直次と非常に少ない。関ケ原での戦いとはどんな戦だったのだろうか。
永賞寺から2kほど離れた松島町にある時宗の来迎寺に行く。開山は京霊山正法寺国阿。国阿北国修行の途中、突然現れた松林の上に紫雲たなびくを見て、その地に一宇を建立し、岡見山紫雲院来迎寺と称したと云う。



来迎寺山門は敦賀城中門を移築したものだという。戦国時代、五万石大名の中門ってこんな質素な門だったのだろうか。少しイメージが違ってしまった。慶応元年二月四日から十三日にかけてこの来迎寺域内で水戸天狗党三百五十二名を斬刑に処し三間四方の穴を五ヶ所に堀り、死骸を埋め、塚を築いたという。今この遺骸を埋めた墓地は土盛され、方十二間高さ八尺、西面十五基(討死一基。病死一基含)の墓石を立て石柵で囲っている。昭和九年十二月、武田耕雲斎等墓として二百五十六坪の地域が国の史跡として指名されている。来迎寺を訪れるのは初めてだと思っていたら、10年前の自分のブログをみたら来迎寺山門の写真が載っていたのでびっくりした。夕方、天気予報を見たら、10年に一度の大寒波が来る予報で慌てる。夕飯も10年前と同じ「まるさん屋」で慌ただしく済ましてしまった。



泊りをキャンセルして、翌朝、一番で帰ることにした。


水戸 天狗党(2012年1月)

敦賀 越前ガニ(2012年2月)



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