大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

松阪 愛宕さんから岡寺さんへ

2023-08-11 | 

松阪の愛宕町の龍泉寺にお城から移築した山門が残っているというので見に行った。


龍泉寺は真言宗高野山派に属し、火防の霊神「愛宕大権現」と「愛染明王」を本尊としあたごさんと親しまれている。昭和27年、三重県有形文化財に指定された山門は、桃山時代の様式の一間一戸の薬医門で、松ヶ島城裏門を移したとも、松坂城の門を移したともいわれている。いづれにしても、この山門は市内最古の木造建築物だそうです。五鈴遺響記載の寺傳記に「上古草創詳悉ならずといえども応仁文明年中に一志郡滝野川村の山中に弘法の開基と云い傳う」とあり、この地は多気北畠殿の領地でその祈願所だったという。龍泉寺は一山の惣寺号で下ノ坊が当院の旧号だったという。永禄十一年(1568)頃、戦火を逃れ松ヶ嶋に移り、天正九年(1581)良宗上人、正親町天皇より勧請仏法興隆の倫旨を賜い勅願所となり、また同時期に嵯峨御所大覚寺宮より令旨を賜るなど政治的な活動を強め、四五百森城主潮田長助(北畠具教家臣)らの援助を受け、一宇を建て上福院と号したという。天正十六年(1588)、松坂城築城に伴い現在地に寺域を定めた。


境内に大きな基壇のうえに乗った宝篋印塔があり、その手前に昌林院殿高岩□忠大居士、墓碑両側にかすかに文禄四、二月七とある小さな墓石があった。この墓が説明にあった松坂城主・古田織部正重勝の墓と思ったが、横に昭和10年に行われた蒲生氏郷卿の展墓祭の写真が掲示されていた。氏郷の戒名を検索したら「昌林院殿高岩宗忠大居士」とあった。展墓というのは墓参りの事で、ここは蒲生氏郷の参り墓ということか。宝篋印塔の隅飾りの反りをみると室町、桃山時代より新しい時代の造りみたいだ。傍に「木犀」とある石柱がある。意味はよくわからないが、金木犀の花言葉の隠世から死後の世界の神聖な場所、墓地を現したのだろうか。伊勢参宮名所図会の愛宕山龍泉寺古田織部正墓とあるものの絵図に墓の記載がない。帰宅してからgoogleマップで検索したら古田大膳墓所というのがあった。龍泉寺本堂から東に約190m(木挽町381-12)の地元で通称、大膳塚と呼ばれているという。寺務所で聞けばよかった。
松阪駅から北西約500mの継松寺に行く。


高野山真言宗、山号を岡寺山、院号は如意輪院、ご本尊は「如意輪観音」。日本最初の厄除け観音だと云われ、通称岡寺として知られている。山門前の筋塀が五本線なので驚いた。五本筋塀は通常、皇族や摂家などの御所や門跡寺院や勅願寺で用いられ最高の格式を示している。寺傳に聖武天皇勅により天平勝宝元年(749)、建立したと伝わると云う。これを以って勅願寺の格式を持っているのだろうか。明治二十二年発行の「伊勢名勝志」によれば天平十五年(743)僧行基により石津郷に創立、天平勝宝二年(750)の洪水により堂宇が流失したが、二見郷の三津正信が海中より本寺の本尊を見つけ旧地に堂宇を再建、剃髪して継松法師と称し、のちに寺号とした。五鈴遺響に江州木田北郡伊曽野の岡山右京允行雄という人、観音堂大日堂護摩堂山門等悉く中興再建し、この岡山の一字を取って岡寺と云うとあった。境内に市指定有形文化財の銅製香炉がある。


継松寺八世快雄上人撰文、韓天寿書、松坂の豪商、小津長保の父道慧が長谷寺に大香炉を寄進したのに習い安永六年(1777)、継松寺に香炉を寄進したもの。香炉を背負った台座が亀の形をしているので、これも亀趺の一種なのだろうか

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松阪の遥拝所(御厨神社 松... | トップ | 松阪牛 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事