大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

三ヶ根 瑞雲山本光寺

2023-11-26 | 

夏、渡り蟹のシーズンかと思い海岸に近い蒲郡に宿を取り、東三河に行った。最近では蒲郡付近の漁港の船は、深場の魚を主に獲っていてカニ漁の漁師はいないと聞いてガッカリする。初日は隣の幸田町深溝にある深溝松平氏の菩提寺、瑞雲山本光寺を訪ねた。

無人駅のJR三ヶ根駅からお寺の山門までは緩やかな登坂で僅か500m。標高差はたかだか20mだが、歩きでこれがきつかった。考えたら現在、JRでの最急勾配は40‰(1000mで40m上る)と同じなので無理もないと納得する。


深溝松平氏家紋
左:五本骨開扇紋(五代忠利使用紋) 
右:十本骨重扇紋(六代忠房嫡子好房使用紋)
   
本光寺によると大永三年(1523)深溝松平忠定が松平家の祈願所、菩提寺として建立、開山は曹洞宗血脈十五世希声英音禅師と伝える。三河国額田郡誌によれば創立は享禄元年(1528)、また三河堤では「寛文九年(1669)大炊頭忠房に肥後松原城を賜う此本光寺を彼の地に建立せらる依て深溝を本山とす、又深溝は島原を本山とす、相本山と云ふ」とある。本光寺は始め、JR三ヶ根駅西口から北西に600mほどあたりの向野墓所付近にあったが、家康関東移封に従い四代家忠も関東に転封、本光寺もお供寺として関東忍に移転した。慶長六年(1601)、五代忠利が深溝に転封され本光寺を再建、初代から四代墓所を整備したが、その場所は向野墓所なのか現在の本光寺の深溝松平家墓所なのかは特定できてないという。慶長十七年(1612)、忠利の三河吉田に転封により深溝の本光寺は端渓山源光寺と改称、忠利から家督を継いだ六代忠房は寛文九年(1669)肥前島原に転封となった。寛文十三年(1673)、源光寺を本光寺と改称し深溝松平家の菩提寺とし藩主の埋葬地とした。向野墓所(深溝西向野)に行くことは出来なかったが、ここに初代松平忠定と二代目松平忠景の首塚と呼ばれる碑があり、万治元年(1658)福知山藩主の深溝松平六代忠房が父祖所縁の地としてここを訪れたという。本光寺の六代忠房が建立した五代忠利を祀る肖影堂は補修のためかテントに覆われていた。その後ろの一段と高いところに亀跌碑があった。

二人の若い女性が亀の首に向けてお金を投げていた。何をしているのかと思ったら横の説明板に「願掛け亀 寛文12年(1672年)建立 参拝者の願いを聞きかなえるため、大きな耳がついている。亀のエリ首(ヘコミ)にサイ銭が入ると願いがかなえられ、万年幸せとなる。福知山城主忠房が領民のため10年がかりで作られた」とあった。万年幸せとなる説明では教育委員会も驚くだろう。この亀跌碑の碑文は史料によると、
参州額田郡深溝本光寺碑銘 
向陽軒林怒之道撰(林羅山三男、字は子和、号は向陽軒)
終行に
萬治三年庚子(1660)八月朔日
丹州福知山城主従五品 主殿頭源忠房立之
碑文に「忠房祖先墳墓之所在大夫立碑欲刻其世系履歴業傳於後世以不忘其本」、「墳在故里 寺曰本光 碑石新立 銘刻以彰 孝志追遠 武名無彊」とあり、残念ながら願掛けや領民の為を思う文字は出てこないが、同行した妻がエリ首にお賽銭を何回か投げていたのを見てガックリする。

撰文が萬治三年(1660)、三河深溝に建立されたのが寛文二年(1672年)七月、完成まで十年以上掛かったことになる。亀跌碑の前にある肖影堂に対して正確にはわからないが五度程度向きが異なる。亀跌碑の向いているところは何処なのだろうか。先祖の為に作らせた碑が五代忠利を祀った肖影堂と向きが異なるのは不思議に思う。元禄、寛政時の寺領絵図では肖影堂の後ろに亀跌碑が平行に描かれていた。十一代忠祗墓所はほぼ真南を向いて建てられている。いつの時代か分からないが肖影堂の向きを南に動かしたのだろうか。

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