大佗坊の在目在口

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米倉寺と米倉一族

2020-02-12 | 掃苔

米倉一族菩提寺の一つ、足柄上郡井ノ口村(今の中井町)にある米倉寺(べいそうじ)は編相模風土記稿に「井宝山ト号ス(大住郡堀山下村蔵林寺末)、開山宗高。古ハ鳳安寺ト号シ、今ノ地ノ乾方二アリ。寛永ノ頃、時ノ地頭米倉平大夫繁次(慶安二年十一月死ス。法名光屋院心叟浄本。按ズルニ寛永譜及重修譜重種ニ作ル、サレド当寺寛永中ノ鐘銘ニモ繁次トアレバ、是非ヲ決シ難シ)此地ヲ寄附シ堂宇ヲ爰ニ移シテ再興シ、今ノ寺号ニ改メ、父丹後守信継(法名米倉寺乗法道心寛永十三年四月八日卒、寛永譜及ヒ重修譜ヲ参考スルニ信継初六郎右衛門ト云。丹後守宗継ガ三男ニシテ兄主計助忠継ガ養子トナリテ家ヲ継キ天正十八年御入国ノ後、甲斐国釆地ヲ当国ヲ遷サレ此地ヲ知行スト云)ヲ開基トス云々」「米倉丹後守信継墓、本堂ノ後丘ニ在、此余子孫ノ墳墓数基アリ」とある。

米倉寺の米倉一族の墓は、米倉丹後守種継・平太夫繁次・権平まで三代の墓で、一枚墓石・五輪塔・宝筺印塔などは、三百数十年もの風雪に耐え米倉一族墓石、供養塔十基が中井町指定重要文化財となっているという。寛政重修諸家譜に「平大夫重種以下系嗣ヲ詳ニセズ。米倉丹後守昌由ガ今ノ呈譜ニ、逸見黒源太清光ガ男奈胡十郎義行ガ三代弥太郎信継ヨリ米倉ヲ称ス。重継ハソノ十代ノ孫ナリトイウ」と安永六年(1777)生まれの米倉昌由により幕府に呈譜されたが、「平大夫重種以下系嗣ヲ詳ニセズ」とある。重継の子信継が八十九歳、その孫政継が九十四歳の長寿にして、系譜を繋げたのではないだろうか。米倉重継の名が残るのは、竹を束ねて縄で縛って銃丸を防ぐ楯とした竹束を考え武川衆として戦功をあげたことに拠る。武川衆というのは、甲斐国志に「武田五郎信光ノ末男六郎信長ト云者忠頼ノ家蹟ヲ継テ一條氏ト号ス其子八郎信継ノ男時信一條源八ト称シ甲斐ノ守護職ニ任セラル男子十数輩アリ武川筋ノ村里ニ分封シテ各其地名ヲ氏号トス祖孫繁栄シテ世ニ武川衆ト号セリ」とあり、青木氏、柳沢氏、横手氏、山寺氏、宮脇氏、米倉氏、折井氏、入戸野氏など戦闘集団の武川衆がいる。このなかで大名となったのは柳沢氏と米倉氏だけで、この柳沢家と米倉家は婚姻関係で結ばれている。米倉信継の嫡男永時(清経)の妻は柳沢吉保の祖父信俊の娘で、柳沢吉保の子忠仰は米倉昌照の養子となり六浦藩四代藩主を継いでいる。米倉寺の説明では米倉丹後守種継・平太夫繁次・権平まで三代の墓があるという。米倉家の墓域には、四基の宝篋印塔と三基の五輪塔、二基の板碑型石塔と石佛一基があった。



いずれも文字が摩滅して判読できなかったが、板碑型石塔一基の上部に米倉院とあったので、この板碑が米倉種継(米倉院殿無常道心居士)の板石塔婆なのだろうか。端の宝篋印塔の台座にかろうじて正月十六日と判読できるので米倉永時の四男で重種の後を継いだ昌継の供養塔か。重修譜には繁次と権平の名がない。重修譜によれば信継(種継)の遺蹟を継いだ重種とその子も平太夫を名乗っている。平太夫繁次と重種、種勝と昌継はそれぞれ別人なのか同一人物なのか、また米倉寺に墓があるという権平とは誰なのかよく分からなかった。

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