大佗坊の在目在口

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麻布光林寺(ヒュースケン墓)

2013-12-16 | 掃苔

先日、築地居留地跡に東京中学院発祥の地を訪ねた。 それから、慌てて築地居留地の資料を漁った。 青山墓地内に外人墓地が決まるまで、麻布の光林寺が外国人の仮埋葬地になっているのを知らなかった。築地居留地でポルトガル人の子供が亡くなり、埋葬申し入れがあった。前例により暫定的な外人仮埋葬地を麻布光林寺としていたが、檀家の反対や外人だけの特定地区の設定等の要望もあり四年後の明治八年、埋葬地を青山共葬墓地と提案したが確定しなかった。外人死亡者のあった明治十年にやっと内務省の許可決裁となり、青山共葬墓地の一区画六百坪を外人墓地として、明治十二年になって墓地貸渡しの規則を定めた。青山霊園
 
仮外人墓地のあった五ノ橋の光林寺を訪ねた。

 
慈眼山光林寺は延宝六年(1678)市兵衛町(光林谷)に開創、元禄六年(1693)当地に移転、讃岐丸亀五万千五百石京極家三代養性院の発願により建立された。このお寺にH・ヒュースケン以外の外人の墓が残っていないか墓域を廻ったが見つからなかった。H・ヒュースケンは初代米国駐日公使ハリスの秘書兼通訳を務めた。万延元年十二月(1861年1月)、にプロイセン王国使節宿舎であった芝赤羽外国人旅宿から米国公使館のある麻布善福寺への帰途、古川中の橋付近で攘夷派浪士らの襲撃に遭い絶命した。 襲撃のあった中ノ橋と道路側欄干の説明
  
善福寺のアメリカ公使館跡の碑
 
赤羽接遇所(港区東麻布1の区立飯倉公園付近)は安政六年(1859)、芝赤羽根講武所附町屋敷地(弐千八百六拾坪余)に外国人のための宿舎兼応接所を設けたもので、間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行各十間のものとの弐棟の木造平屋家屋から成っていたという。
 
外国人旅宿の隣にある心光院(現在は東京タワー下)は明治四年八月から十月まで東京でどん底の生活を送っていた旧会津藩士の丹羽五郎が日本橋青物町に移転するまでこの心光院の門番所を借りていたところ。

光林寺本堂・庫裏の右側に墓域に行く道があり、墓域の中段、右手奥にヒュースケンの墓がある。その斜め前に東禅寺イギリス公使館で働いていたボーイ伝吉の墓があった。
 
 
伝吉の墓
 
伝吉は「栄力丸」の賄方として乗り込んだが、嘉永三年(1850)志摩沖で遭難、2ヵ月近い遭難のあとアメリカ船に救助され、10年近く外国を流浪して安政六年イギリス公使オ-ルコックを乗せた軍艦サンプソン号で江戸に戻ったが、わずか7ヶ月で刺殺された。

ヒュースケン墓碑文
   SACRED
 to the memory of
HENRY CJ HEUSKEN
 Interpreter to the
AMERICAN LEGATION
      in japan
BORN AT AMSTERDAM
 January 20 1832
DIED AT YEDO
 January 16 1861

光林寺墓域

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