大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

高岡 総持寺・林洞寺・東漸院

2019-08-14 | 

前田利長の菩提寺、瑞龍寺の西北に石仏が並んでいるお寺、総持寺があったので行ってみた。
 
 
総持寺の山号は衆徳山、高野山真言宗のお寺で、ここのH・Pによると「当山は創建当時、今の高岡市石堤の地にあったといわれ、前田利長(加賀藩二代藩主)守山在城の節は祈願所となり、高岡城移住の時、利長の意向により、慶長年間に現在地に移ったとされる。当山二十二世快雄和尚は、慶長十四年(1609)時の利長公高岡城築城の際、利長公より、当時関野と呼ばれたこの地の新たな命名を依頼され、中国の詩経の一節により「高岡」と名付けた人物である」とあった。ここの像内に正平八年(1353)卯月三日金剛位禅恵、仏師幸賀並ニ頼真等の銘がある「木造千手観音座像」は昭和12年、国の重要文化財に指定されていて、一年に一度11月15日に御開帳だという。このお寺にはもう一つの「秘仏」がある。薬師如来像で普段は厨子の中に納められ、五十年に一度の開帳だという。高岡諸寺院由緒聞合帳によるとこの厨子蓮台は玉泉院(織田信長娘で前田家長室)の寄進で、薬師如来像は三輪明神之作だという。由緒聞合帳によれば、むかし寺中より出火し縁起等焼失している。高岡城の地祭、並びに端龍寺建立の節、地祭を仰せつけられ、千手観音は越中那古の海より上がり給わったものだともいう。
 
外塀に寺を取り巻く様に安置している六十六部の石仏は昔の国名、六十六国を廻国し納経する聖を意味し、六十六体の石仏を納めたもので、現在は半分ほど残っているという。外側の石仏を眺めていて、ここの山門と境内にある建物の位置が微妙に歪んでいるように思えた。瑞龍寺から北側の道を廻るようにいくとJR城端線の踏切があり、その先に総持寺の裏門というか東側の門がある。正門は北側にある。念のため総持寺と東側の門を結んで延長してみた、前田利長墓にぶつかった。本堂と正門の延長上には高岡城の大手門があった。町を歩いていると方向感覚が少しずつズレていくような不思議な感覚にとらわれる。総持寺は巡れば西国三十三観音霊場を巡礼したのと同じご利益があるといわれている高岡の新西国三十三観音札所の二十八番札所です。
瑞龍寺四箇寺と呼ばれた塔頭寺院、東漸院、亀占庵、林洞庵(今林洞寺)、法性寺の内、今残る林洞寺、東漸院を廻った。城端線に沿って林洞寺に向かう。途中、だいたい1時間に1本しか運転していない城端線の電車が横を通過した。なにか珍しいものに出会って徳をした感じになる。
 
 
 
林洞寺は総持寺の南にあり、高岡新西国三十三観音の十一番札所となっている。
東漸院は瑞龍寺の南側にあり、瑞龍寺の塔頭寺院の筆頭であった寺院で高岡新西国三十三観音札所場の九番札所です。ちょうど瑞龍寺を時計と反対周りに一周したことになる。
 
 
高岡城下での寺の加賀藩での正月年頭御作法が「北藩秘鑑」にあった。筆頭が十帖一巻の総持寺、十帖一本が瑞龍寺、繁久寺が中畧の十帖一本、それに瑞龍寺塔頭四箇寺が連なる。総持寺が瑞龍寺よりの寺格が上だったのに驚く。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高岡 瑞龍寺 | トップ | 高岡 極楽寺から妙国寺へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事