大佗坊の在目在口

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盛岡南部家墓所 聖寿寺

2019-09-18 | 

盛岡五箇寺の一也という盛岡南部家墓所の聖寿寺を訪ねた。
 
  
聖寿寺のH・Pによれば「「聖寿寺」は建長六年(1254)、南部家第二代南部実光公が初代光行公の菩提を弔うため、青森県三戸郡に福壽山「三光庵」として創建したことに始まる」とある。ところが三光庵の由来には諸説あり、江戸時代の地誌、南部砂子に三代時實の時、遠光、光行、實光の三光から三光庵を草創し南部家累代の菩提所とした。一説に後醍醐天皇の師、三光国師の弟子義山、三戸にきて草庵を結住し師を崇めて三光庵と号した。また實光の諡を三光院殿と称し、實光が薨かった時に建立されたため、庵号にしたともある。この三光庵を菩提寺としたのは四代政光迄で、その後、南部氏が三戸から盛岡へ居城を移転に伴い二十六代信直は中絶していた菩提所の再興を考え、三戸にあった三光庵を盛岡に移し、山号を大光山、寺号を聖壽萬年禅寺と改め、二十八代重直公の時、現在の盛岡北山に聖寿寺としたという。歴代盛岡藩主の菩提寺は、ここ聖寿寺とお隣の東禅寺の二ヶ所ある。二十六代で初代盛岡藩主の信直は三戸聖寿寺、二代藩主利直は東禅寺、利直三男の三代藩主重直は父の死去により寛永九年(1632)家督を継ぎ、寛文四年(1644)に逝去し、盛岡聖寿寺で埋葬された最初の藩主となった。寛政重修諸家譜に二十五代晴継早世し信直従弟たりといえどもその家を継ぐとあるが、二十六代信直と晴継との関係もよく分からない。三戸から盛岡に城を移した理由も諸説あり、盛岡城の完成した時期もいつと捉えるのだろうか。南部氏二十六代信直や二十七代利直を盛岡藩社初代藩主としている資料もあり、根城南部氏(遠野)、八戸南部氏、三戸南部氏の各氏が毒殺、暗殺を繰り返し、そのうえ津軽氏との確執も加わり、南部氏一族を理解するのが難しい。
 
  
 
本堂の左奥にある南部家霊廟は昭和五年、四十四代利英氏のときに建立された。第四十三代利淳(仙徳院殿)の遺言によるもので、同年十一月、利淳氏のご遺骨が初めて納骨された。南部家墓所は地蔵堂右手の石段を登った山の傾斜地にある。急な石段に怯む。見えている石段で終わりかと思ったら、山の傾斜地に沿ってさらに奥に続いている。昔の山城の郭みたいに三つの郭がありその奥の本丸の墓域に初代光行(雲樹院殿)、九代祐政(成就院殿)、十一代信長(源性院殿)、十二代政行(了智院殿)の墓が一列に並び、その手前に三十六代利敬(神鼎院殿)、四十代利剛(高致院殿)の墓がある。

初代光行(雲樹院殿)                             九代祐政(成就院殿)
 
十一代信長(源性院殿)                            十二代政行(了智院殿)   
 
三十三代利視(天量院殿)                           右側 三十八代利済(霊承院殿)
 
二十九代重信(大源院殿)          三十代行信(徳雲院殿)        
 
左手前から三十四代利雄(養源院殿)、
二十八代重直(即性院殿)、               左、四十代利剛(高致院殿)
三十二代利幹(霊徳院殿)         右、三十六代利敬(神鼎院殿)
 
一つ下の段には三十三代利視(天量院殿)、その下の墓域には二十九代重信(大源院殿)、三十代行信(徳雲院殿)、奥に三十八代利済(霊承院殿)、石段の中ほど左右ある墓域の右側に聖寿寺で埋葬された最初の盛岡藩主南部氏二十八代重直(即性院殿前城州太守三峰宗玄大居士)、三十二代利幹(霊徳院殿)、三十四代利雄(養源院殿)の藩主の墓があり、五つの墓域には藩主の墓を含めて、一族の墓碑・墓石が百ちかくあった。
 
始祖光行、九代祐政、十一代信長、十二代政行の墓石が聖寿寺南部家墓所の最上段に何故あるのかわからなかったが、大正十年(1921)、鎌倉極楽寺近くの寺跡から発掘された五輪塔を原敬が盛岡聖寿寺に移設したものだという。寛政重修諸家譜に九代祐政、十二代政行は成就院に葬るとあり、十一代信長は源性院に葬るとあったが、南部史要に十一代信長(法号源性院殿天岩秀公)成就院に葬るとあった。法号と書き間違えたか。極楽寺前に鎌倉へ向かう極楽寺切通がある。この切通の左側、山の中腹に昔、西方寺があり、明応年間(1492~)に横浜新羽に移転しているが、大正期にこの寺址近くの畑から南部家の墓石が出てきたという。西方寺址の裏山からは多くの石塔が発掘され、一部は西方寺址石塔群として鎌倉市重要文化財になっている。発掘された石塔はいかなる理由で南部家の墓石と断定できたのだろうか。

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