福井大安寺の駐車場から200m位の先の二股の道を右に折れ、道なりに300mほど登ると小さな空地があり、竹や木で滑り止めになっている道が現れる。ここから100m弱登ってやっと千畳敷にたどり着く。標高差僅か66mに過ぎないが、松平家墓所が大安寺本堂の裏手にあると思い込んでいたのでかなりきつかった。
福井松平家墓所の前に千畳敷の由来が掲げてあった。それによると「この墓所は、大安禅寺の「縁由書」によれば、第4代藩主松平光通公が両親及び先祖の恩を思い、万治2年(1659年)から3年までに完成したもので、初代藩主結城秀康ほか歴代藩主の霊をまつっている。四方は2メートル程の石柱玉垣をめぐらしその中に芴谷石の石板千畳を敷き詰め、高さ3メートルの同型の墓石が10基相並んで立っている云々」とある。すなわち藩祖秀康、三代忠昌、同室道姫、四代光通、同室国姫、五代昌親(七代吉品)、八代から十一代までの計十基で、二代藩主と六代藩主の墓はここにはない。
福井藩主系図はややこしい。誰を藩祖とするかで異なるが、福井県史によれば、徳川家康二男結城秀康を藩祖として二代忠直、三代忠昌、四代光通、五代昌親、六代綱昌と続くがこの福井松平氏の姻戚関係が非常に複雑。秀康長男二代忠直は数々の乱行を理由に元和九年(1623)、大分豊後に流配となり二男の忠昌が三代藩主となる。毛利秀就に嫁いだ秀康娘喜佐の娘土佐は二代忠直と二代将軍娘勝姫の子光長に嫁ぎ、光長娘国姫が嫁いだのが忠昌の次男四代光通で、光通と国姫の間に世継ぎがいなかった。国姫は寛文十一年(1671)自殺、あとを追うように光通も延宝二年(1674)自刃してしまう。光通の庶弟昌親が五代藩主となる。光通庶兄昌勝の長男綱昌が六代藩主となるが精神を侵され乱心領地召上(三十万石に減封(貞享の半知))となる。七代は吉品(昌親)が藩主となり、昌勝の六男吉邦が八代、昌勝の三男宗昌が九代を継ぎ、秀康の五男直基の孫知清の四男で八代藩主吉邦の娘勝姫を嫁にした宗矩が十代藩主となる。宗矩に世継ぎがいなかったため八代将軍吉宗(紀州二代藩主)の四男、初代一橋家当主徳川宗尹の長男重昌が十一代藩主となる。福井初代藩主秀康の葬地は孝顕寺(のち運正寺)だったが、浄光院を建立し改葬、高野山に秀康の母(長勝院)と共に石廟がある。二代忠直は大分浄土寺、三代忠昌は浄光院と永平寺、四代光通は大安寺、五代昌親(七代)と生母高照院墓は瑞源寺、六代綱昌は深川霊厳寺、八代吉邦、十代宗矩公は運正寺と何故か各所に分散している。越後松平家は昭和二十年の福井大空襲と二十三年の福井大震災後の区画整理により孝顕寺、運正寺、東光寺の墓所を明治以降の墓所である品川海晏寺に改葬している。
高野山の秀康霊屋内には宝篋印塔五基、母の霊屋内には宝篋印塔二基と五輪塔が納められているという。
大安寺の松平家墓所、秀康墓石の後には殉死した者の墓碑(永見右衛門長次と土屋左馬助昌春)、
三代忠昌墓石の後ろにも殉死の者(山内隼人、鈴木多宮、瀧主計、水野刑部、斎藤民部、山本左門、太田三□)の墓碑一基があった。
この七家は「殉死之家に付」として優遇されたという。
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