大佗坊の在目在口

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相模 蔵林寺

2020-02-05 | 掃苔

上杉龍若丸と神尾氏との関係で、上杉憲政の事績を調べていて信濃の志賀城主笠原清繁と武田勢との戦(小田井原の戦)で笠原を加勢した上杉勢は大敗した。この戦いの中で武田勢甘利衆同心頭の米倉重継という武将を知った。武田家滅亡のあと、米倉重継の子孫が家康に仕え、のちに大名となり金沢八景の六浦に陣屋を構えていたという。神奈川に小田原藩以外に大名がいたことに驚いた。この米倉氏の菩提寺が秦野の蔵林寺だというので出かけた。蔵林寺は小田急渋沢駅からバスで15分位、水無川に架かる吊り橋のある秦野戸川公園そばで水無川の右岸にある。


蔵林寺は新編相模風土記稿によれば「大育山ト号ス。曹洞宗、徳年中開山瑞秀祥禎、当寺ヲ堀山ノ中二創建シ文明年中、今ノ所二移転ス。天正ノ頃飯田道久ト云者中興ス。寛文十三年(1674)九世牧泉養牛カ時、米倉丹後守昌尹再中興セリ云々」とある。昭和43年、秦野市の史跡文化財登録の「米倉丹後守一族の墓地」の説明に「秦野市堀山下にある蔵林寺には、江戸時代の大名米倉氏の墓所があります。現在も初代から15代までの当主一族の墓石20基、石灯籠23基、家老塚1基が残っており、当地には5代昌純と6代昌尹(まさただ)が埋葬されています(他の当主は墓石のみで埋葬は他の寺)。最も古いと思われる墓石は、元禄5年(1692)、昌尹が建立した初代重継、2代忠継の墓石です。昌尹は、祖父清継が徳川家康から賜った領地が堀山下村にあることから、同村の蔵林寺を菩提寺とし、ここに墓所を設けたとみられます。(米倉家系図では、戦国時代、長篠の戦で戦死した重継を初代としています)」とある。寛政重修諸家譜米倉氏系図に米倉昌尹とその父米倉政継(昌純)、堀山下蔵林寺に葬るとあり、米倉一族の墓地は本堂に向かって左手の石段を上がったところにある。


上段中段に蔵林院(昌尹)の墓を中心に十二基の墓、下段には家族墓(?)と家老塚が並ぶ。近世米倉氏の初代は誰とするかはっきりしなかったが、蔵林寺米倉一族の墓地の中心にある米倉昌尹(蔵林院)を初代として、十代昌寿(昌寿院)までの十基と武田甘利勢として天正三年(1575)、長篠の戦いで戦死した宗継(重継)の供養墓(甲)と二代昌明の弟、昌仲(忠直・徳心)の墓(乙)があったが、昌尹の父政継(昌純)の墓は見つけることが出来なかった。

初代蔵林院墓


十代昌寿院墓          右)大育院(遠祖宗継)と浄鏡院(妻)の供養塔

米倉昌尹が蔵林寺を再建したのが寛文十三年(1673)、亡くなったのが元禄十二年(1699)、昌尹の父政継(昌純)が亡くなったのが宝永四年(1707)、九十四歳だったという。逆算すると政継の生まれは慶長十九年(1614)前後となる。寛政重修諸家譜に「平大夫重種以下系嗣を詳にせず。米倉丹後守昌由が今の呈譜に、逸見黒源太清光が男、奈胡十郎義行が三代弥太郎信継より米倉を称す。重継はその十代の孫なりという」とあり、名乗りも、初名、通称、字、諱、諡と複数あり系嗣を特定するのが難しい。系譜も後世に作られたものも多く、米倉一族も呈譜にはかなり苦労したのではないだろうか。相模に有るもう一つの米倉一族の菩提寺である米倉寺に向かった。


注)蔵林寺米倉丹後守一族の墓地略図は米倉昌尹(蔵林院)を初代とした

 

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