天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

空海が長安で見た胡旋舞が日本にも伝播され劇場演技者女性の舞に転化、もう見れない私はルーツを訪ねる

2010-02-20 18:42:26 | 日記
今日の日記は、私が今再々読している司馬遼太郎著『空海の風景』に登場する、長安の西市で舞う娘「胡旋女」のことです。その一節を文中から一部を抜粋しここに掲載します。
『遠く西域から荷を運んできた商隊が、駱駝の背を解く場所も西市であり、ペルシア生まれの少女が、露天で人を集めて舞踏をして見せるのもこの西市であった。西胡の娘たちは桃色に息づくからだを軽紗でつつみ、つまさきを立ててはげしく舞う。「胡旋舞」と言った。時に天を掴もうとするように鋭く跳ぶ。「胡騰舞」と呼ばれる。舞う娘を、長安の人々は「胡旋女」と呼んだ。「胡旋女、胡旋女、心は弦に応じ、手は鼓に応ず、廻雪飄々、転蓬のごとく舞ふ。左旋、右転、疲るるを知らず」と白楽天は歎じ、元稹はその舞うさまを「回風乱舞、空に当って散ず」と詠み、李端はその容姿を「肌膚は玉の如く、鼻は錐(きり)の如し」と表現した。空海もおそらく群集にまじり、伸びあがって、紅暈(こううん)の軽巾をまとった娘たちの舞いを見たであろう。』
この司馬さんの「胡旋舞」を踊る「胡旋女」の表現に、私はとても強い親近感を持ちました。それは、去年の5月まで私が観劇応援して楽しく見ていた劇場演技者女性の舞いと、まったく同じ表現と、私が感じたからです。
だから、空海が入唐して長安の西市で見たこの「胡旋舞」は、当時の日中文化交流を通じ日本にも伝播され、そののちのとても長い雌伏期間を経て、私が過去観劇していた劇場演技者女性の舞に、美しく転化されたと私は思っています。私は、もうその美しい舞を見ることが適わなくなりました。でも、せめてその発祥の地・長安の西市(現在の西安)を訪れて、その舞いの美しきルーツに、私は直接触れたくなりました。
だから、私は今年のGW休暇に中国・西安を訪れるつもりです。
コメント
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