天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

私は藤田さんが最後に演じた必殺「中村主水」を追悼番組で見たい!テレビ朝日に是非再放映を御願い

2010-02-21 21:12:52 | 日記
今日の追加日記は、17日に逝去された俳優・藤田まことさんのテレビ各局が放映する追悼番組のことです。
私は20日午後、藤田まことさんが自身の当り役双璧の一つ「秋山小兵衛」を演じた、その追悼番組フジTV系関西テレビ製作『剣客商売スペシャル 春の嵐』をとても懐かしく、感慨深く見させてもらいました。
でも、私が見たかったもう一つの当り役「中村主水」を演じたテレビ朝日系、朝日放送製作『必殺仕事人・2009:最終回』は、中村さんの追悼番組にならないみたいです。このTV局の処置は、私にはとても残念です。私はもう一度、藤田さんの中村主水を見たいです。ですから、衷心よりテレビ朝日編成担当者の方に、衷心より御願いがあります。自局製作の『はぐれ刑事純情派・最終回スペシャル』だけでなく、もう一つの看板番組だった『必殺仕事人・2009:最終回』を追悼番組として、是非放映してほしいです。
今回は、TBS系では藤田さんの追悼番組はないみたいです。でも、本日の読売新聞日曜版の「週間おすすめシネマ欄」に映画『突入せよ!あさま山荘事件』(2002年製作・原田真人監督 役所広司主演)を見つけて、私はとても嬉しくなりました。私はTBSに藤田まことさんの追悼番組として、TBSで以前放映したこの映画を、是非御願いしようと思っていたからです。この映画が再び見れることになって、私はTBSにとても感謝しています。
この映画では、藤田まことさんは、役所広司さんが演じた佐々淳行の上司である警察庁長官・後藤田正晴を、その御本人よりとても素晴らしく演じられていたからです。
そして、この事件はちょうど38年前に実際にテレビ中継された、とても私に印象深い出来事でした。その突入日・2月28日には、強烈な臨場感溢れるそのTV中継に、自身の受験勉強もまったく忘れてしまい、朝の突入開始から夜7時過ぎ最後の犯人逮捕まで、私は夢中になってずっとその最終結末までテレビにかぶりついて見てしまいました。
今考えると、私の劇場観劇姿勢のルーツは、このあさま山荘事件のテレビ中継鑑賞にあると、私は思っています。
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胡旋女と関わる己の想念を透明歓喜に抽象化した空海は、密教仏に酷似胡姫を菩薩への昇華思考で自ら楽しむ

2010-02-21 18:28:05 | 日記
今日の日記は、私が今再々読している司馬遼太郎著『空海の風景』で長安で舞う娘「胡旋女」を見た空海自身のことです。その名文の誉れ高い司馬さんの一節を、とても長文になりますが抜粋し、ここに引用掲載します。
『空海は生涯不犯(ふぼん)とされたが、そのことは女性への関心が薄かったということにならず、むしろ彼ほどそれを激しく内蔵していた者も稀ではなかったと思われる。花弁に粘液を含んだようなその文章の独特の装飾性といい、男女の愛縛を菩薩の位であるとする理趣教をもって密教の主要経典にしたあたりといい、彼をもって枯淡の人ということはできないであろう。彼は性の具体的世界にこそ泥(なず)まなかったにせよ、泥む以上の執拗さをもってその世界を昇華させ、その昇華作業こそ即身成仏の道であるとした男だけに、胡旋女をみて、見ることによって胡旋女と関わってゆく自分の想念を、透明歓喜にまで抽象化する作業を、人混みのなかで私(ひそ)かに、内面の奥で、演じていたかのように思える。・・空海はそういう酒家の軒下をかすめて歩きつつ、胡姫というものがいかに密教仏ー密教仏は現世の扮装であるだけにーに酷似しているかに内心驚いたに違いない。・・たとえ青綺門の胡姫が素手をもって空海の袖を引いたところで、空海は別に動じることなく胡姫の手に触れたかもしれない。何事も思想化することに苛烈なほどの情熱をもっていた彼は、血の色の透けてみえる胡姫の手に触れた感触もまた容易ならぬ材料であったろうし、菩薩という抽象性へ昇華させようという楽しみの一つになったかもしれない。』
このように、司馬さんは空海という巨大な宗教家の実体を、一切の仏教的な術語を使わず(私注:自著の「あとがき」で自らの取りきめにしたと記述)、空海が生きたその時代事情・身辺や思想を通して、ものの見事に文章化し鋭く浮かび上がらせています。何度もこの名著を読んでも、私はいつも新たな感動を受けています。そして、今回の新たな感動は、この「胡旋女」が、とても夢中になった劇場演技者女性とまったく同質だと、読んで私が得心したことです。
私は、偉大な宗教家・空海と違い、男女間の雑念を持ったごく普通の凡人です。それでも、空海が胡旋女や胡女に巡りあった時の、司馬さんが深く看過した空海の思考回路に、私は男としてとても強く共感できます。
しかし、私自身は空海のようにそれを宗教的に昇華させることはとてもできません。胡姫に握られた手を逆に握り返す空海は、強い宗教的な倫理観がある僧侶であったからこそ実現出来た行動です。私なら、胡姫のその行為を受けて、単純に何も思わず男として、ただただ歓喜しているだけかもしれません。
空海が巡りあって手を握ったであろう胡姫の末裔を訪ねる、今回のGW中国西安旅行が、私はとても楽しみになりました。
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