天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

映画『メッセンジャー』で若いメンバーをナビする加山雄三に、私たちの「中年おじさんの星」理想像を見た

2010-02-27 23:27:35 | 日記
今日の追加日記は、久しぶりに再度ビデオ鑑賞した日本映画『メッセンジャー』(1999年製作・馬場康夫監督 飯島直子 草剛主演)の感想記です。11年前に公開されたこの映画をまた急に見たくなったのは、この映画『メッセンジャー』には、脇役として加山雄三が久しぶりに映画に登場しているからです。加山雄三は、交通取締りを主な任務としていた警察署を定年退職し、自転車宅配便の個人会社に再就職する中年男役で出演しています。
監督の馬場康夫(注:1954年生まれで、私より一歳だけ若い私と同世代の人)は、加山雄三の『若大将』シリーズの大ファンで、彼に直々出演依頼しています。そして、大ファンの加山雄三を迎えた馬場監督は、もう一つ粋な配役をみせてくれています。宅配便メンバーの溜まり場となっているカウンター・バーのバーテン役に江原達怡を起用してくれているのです。
これは馬場監督と同じ世代の私には、とても嬉しかったです。1981年の東宝映画『帰って来た若大将』以来、19年ぶりとなる加山&江原の名コンビ復活の映画になったからです。
加山雄三は、定年で退職(注:映画製作時、彼は62歳)するとは思えないほど、とても若々しい中年男を映画で熱演しています。でも、映画では、実際に宅配自転車を走らす熱意(過去若い時、都内中を自転車で警邏した実績)があっても、宅配実績を上げられず、メンバーを無線でアシスト(勤務上都内の道路情報に精通している職能で)するナビゲター役に任務を転属してします。
若い宅配メンバーの中で、理解ある父親であり、良き兄貴のように接する加山雄三が、映画『メッセンジャー』の大きな魅力の一つだと私は思っています。 そして、映画を楽しみながら、リタイヤ後の私もこの映画の加山雄三のような存在になりたいと、私は痛感しました。
最後の映画エンディングクレジットで、若い出演メンバーと一緒にラップ音楽をキーボード演奏する加山雄三の姿に、私が理想とする「中年おじさんの星」を私はダブらせてしまいました。
映画鑑賞後、私も容姿はともかく気持ちだけは、いつも若々しくありたいと心から願いました。
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北海道の大自然の凄まじさを理解できない投稿者に、司馬さんの名著『街道をゆく・北海道の諸道』の熟読を!

2010-02-27 19:40:40 | 日記
今日の日記は、北海道の風土をまったく知らない悪行客のネット掲示板投稿に対する私の反論です。以下に、その投稿文を引用掲載します。
・投稿文『道北地方と言った次の記事は幌延町に限定して反論w 最初から幌延町に限った話ならまあ同意ではあるが、オヤジは道北地方と書いたから昨日の書き込みが生じた。そりゃあググれだのアイヌを知らないだの言われるわなw 毎度の反論ネタ探し乙w 実は幌延から来た上司も捏造だったりしてw あまり読者に誤解を与えるような書き込みはよそうねw』
この投稿者は、まったく北海道に住んだことがない悪行ネット客です。道北地方の中で幌延町だけが、特に酪農に力を入れているわけではないです。道北地方の他の町でも、同じように牛が多い所は存在します。そのことは、北海道道民なら皆が知っていることです。最初から幌延の地名を明記することがネット板でその町の謂れのない産業上の中傷を誘発すると、私は危惧したので、私は日記であえて場所を限定表現しなかったのです。
更に、この悪行ネット客は、私の過去の体験実話まで捏造だと言い出す始末です。この投稿者は、北海道の大自然の凄まじさを何も理解できないから、仕事で函館から北見に転勤になった「塩の人」の悲壮感もまったく判らないでしょう。北海道の風土に理解ある閲覧者なら、私が捏造できる話ではないと納得してくれるはずです。
そして、その出迎えてくれた上司から、その晩の私の歓迎会で「冬は飲み屋で飲みすぎて、ものすごく酔っ払っても、絶対、帰りに路上で寝るな!すぐに凍死するからな!」と私は直々に注意されました。なぜなら、厳冬の北見の夜は、氷点下20度以上にまで、外気温が下がるからです。
さらに、北海道の大自然の凄まじさを理解してもらう為、北海道でも「奥地中の奥地」と謂われる陸別の話を私はします。私が1980年頃住んだ北見には、石北本線(私は転勤の時、札幌から一日乗車)の幹線鉄道の北見駅以外に、南下した支線として池田町まで池北線(今ではもう廃止された)が当時運行されていました。その途中駅にその陸別がありました。1985年文庫版で出版されて私が愛読し、その当時を懐かしく思い出した司馬遼太郎さんの名著『街道をゆく(15)北海道の諸道』から、陸別に最初に入植した関寛斎の苦闘を引用掲載します。
『このあたりをひらいて人里にした最初の人は、いうまでもなく73歳で入植した寛斎である。仮に寛斎が別の土地を選んでそこを開いたとすれば、陸別は今なお原生林のままであるに違いない。小樽や函館のように、誰でも目をつけるという立地条件をもっていないのである。・・陸別の町の人々にとっては、明治初年の薩摩での西郷隆盛や初期の慶応義塾における福沢諭吉の名に等しい。・・寛斎は、開拓の労働に自分を投じ入れた。原生林を伐り、根を掘り起こし、地を平にして、牧草や野菜の種を蒔いた。が、右の条件である為に、絶望的な艱難が続いた。・・寛斎がここに鍬を入れて野菜の種を蒔くと、まわりの密林にすむウサギ、ネズミなどの小動物が大いに喜び、寛斎の野菜が大きくなるのをまちかねて食べた。蚊などの吸血動物も、それまで動物の血を吸っていたのが、人間の血の味を知るようになった。寛斎の顔はカボチャのように腫れあがり、瞼がふくらんで目があけられない日もあった。・・寛斎にとって開拓は自然にかえることであり、さらには社会への報謝であるつもりだった。でなければ、73歳で極寒の地にやってくるばかがいるだろうか。』
北海道をまったく知らないこのネット投稿者に一度、この司馬さんの名著『街道をゆく(15)北海道の諸道』を私は是非読んでほしいです。
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