天命を知る齢に成りながらその命を果たせなかった男の人生懺悔録

人生のターミナルに近づきながら、己の信念を貫けなかった弱い男が、その生き様を回想し懺悔告白します

異文化侵入防御巨壁『万里の長城』がいかに堅固であっても、普遍な人間の心を囲い込むのは不可能を痛感

2010-01-02 17:12:43 | 日記
今日の日記は、私の中国旅行記・その4です。26日夜、繁華街「前門」でウインドショッピングしている時、日本にもあるカジュアル衣料品を扱う店舗「ユニクロ:UNIQLO」を見つけました。この「ユニクロ」は、2002年9月上海市に初出店以来、中国全土にその店舗網を拡大しています。(注:北京には他の場所にもその店舗があった。)
そしてこの「ユニクロ」は、私の自宅近く(もう歩いて約1分)にも最近新店舗がオープンしたので、私がよく知っている衣料品店舗です。私はちょっと興味があったので、その店に入ってみました。その店舗内のディスプレーは日本とまったく同じで、価格も日本とほとんど同じでした。物価が安く給与賃金がまだ安い中国では、「ユニクロ」は低価格カジュアル衣料品というより、ブランド衣料品として中国人は見ているみたいです。でも、その「ユニクロ」衣料品は、昔は中国の現地で製作されていました。(注:現在はもっと賃金が安いベトナム他の東南アジアに製作拠点を移設)
現地で製作され日本に流入していた衣料品が逆に元に戻ってくる社会経済のこの現象に、とても感慨深い思いを持ちました。それは、地球は一つの世界になったとの思いからです。
その思いをもっと強烈に自覚したのは、翌日『万里の長城』の内、「八達嶺長城」(注:明朝時代に修復)を観光した時です。(注:添付写真参照のこと)古代中国の王朝の歴史は、押し寄せる北方異民族匈奴との攻防の歴史です。初めての統一王朝「秦」の始皇帝は、その強力な国力で北方異民族匈奴の侵入を防ぐ為、北辺の防波堤ともいうべき『万里の長城』を構築しました。そして以後、歴代の中国王朝はその『万里の長城』を何度も堅固に修復してきました。
しかし、『万里の長城』がどんなに巨大堅固であっても、普遍な人間の心を防波堤で囲い込むは不可能です。歴代の中国王朝はその役割が終われば、「外憂内患」の言葉が示すように、外圧だけでなく内部から腐り切り自己崩壊しています。
だから、私は『万里の長城』を訪ね実際に歩いてみて、匈奴に嫁いだ悲劇の王妃と言われる中国四大美女の一人『王昭君』のエピソードに思いを馳せました。
紀元前33年、東匈奴・乎韓邪単千は、皇帝の血をひく子女を妻にしたいと前漢・武帝に申し込みました。一方、武帝は西匈奴の勢力を牽制する為、東匈奴を懐柔する必要がりました。武帝は三千人の後宮女性の中から、彼女ら肖像画により最も醜い宮女『王昭君』を選び、王妃として単千に渡すことにしました。人身御供の貢物として東匈奴に送られる『王昭君』が武帝に初めて拝謁しました。その時、武帝は初めて彼女の美貌に気が付き、大いに驚愕しました。彼女は自分の後宮の中で第一の美女だったからです。悔しさと怒りで逆上した武帝は、彼女の肖像画を描いた絵師を逮捕して、市内を引き回した上、首を刎ねて処刑してしまいました。
しかし、約束通り『王昭君』は匈奴の地に送られました。彼女は単于の皇后となり、匈奴の民にとても大切にされたそうです。やがて、王昭君は単于との間に男子を設けました。しかし、嫁いでから三年目、単于が亡くなると、匈奴の慣習にしたがって、今度は単于の息子・新王の妻となり、さらに女子二人を生みました。このように漢人の意に反して、王昭君は異境の地・匈奴でたくましく生きたのです。
確かに、自分の意思に反して、辺境の地に住む異民族に送られるという運命は、女性にとって悲嘆にくれる悲劇だったかもしれません。しかし、どんな異民族でも人類普遍の人間の暖かい心・深い愛情は『万里の長城』の囲いを溶かす大きな力があるのです。現在王昭君の墓は、内モンゴル自治区フフホト市の山ふもとにあるそうです。そしてその墓の傍らには、その大きな力を指し示すように、王昭君が馬に乗り仲良く夫の呼韓邪単千と共に寄り添う記念碑像が立てられています。
私はこの『万里の長城』を歩いてみて、異文化の侵入防御の為、設置された巨壁『万里の長城』がいかに堅固であっても、普遍な人間の心・深い愛情を無理やり囲い込むはとても不可能であると痛感しました。
この地球は、愛ある一つの世界なのです。
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