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まりっぺのお気楽読書

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スウェーデン王エリク9世妃 クリスティーナ

2011-07-06 15:07:42 | スウェーデン王妃
               北欧神話シリーズ、ブルガー作ノルン

修道院に嫌がらせ? バチがあたらなければよいが…
エリク9世妃 クリスティーナ・ビョルンスドッテル


1120頃~1170頃/在位 1156~1160

エリク9世の妃クリスティーナは、デンマーク王子ハーラルの息子ビョルンと
スウェーデン王インゲ1世の王女カタリーナの娘で、まさに北欧のプリンセス。

けれども、国内においても権力争いの激しい中世の北欧…
クリスティーナの父は彼女が十代の時に、叔父(ハーラル王子の弟)にあたる
エーリク2世に敵対して処刑されました。
             
1149年か1150年にいとこにあたるエリクと結婚してます。
29歳ぐらい…ロイヤルファミリーにしては晩婚ですね。

エリク9世と言えば、フィンランドへの初の十字軍遠征を率いたりして
聖王などと呼ばれている方ですが、その奥様はいざこざをおこしてます。

相手はヴェステルイェートランドのヴァルンヘム修道院です。
クリスティーナはこの修道院を自分が親戚から譲り受けたものだと考えていて
所有権を主張していましたが、修道院は認めませんでした。

クリスティーナは腹いせに女性を修道院に送り込んで
修道僧たちの前で裸で踊らせる…などの嫌がらせをしたそうです。

とうとう修道僧たちは追い出されて、デンマークに保護を求めました。
クリスティーナに追い出された修道僧たちがデンマークに建てたのがヴィツコル修道院です。
ローマ教皇(たぶんハドリアヌス4世)はクリスティーナを破門にしようと考えたほどでした。

1160年にエリク9世が暗殺されると、クリスティーナは家族や従者たちと
デンマークに逃げ帰りましたが、その際、スウェーデン王冠を持ってっちゃったらしい…

母の執念がものを言ったか、1167年に息子クヌートがスウェーデン王に即位しました。
その頃に亡くなっているらしいのですが、いつだかはっきりしません。
息子の晴れの舞台が見れていたらラッキーですね。
でも、修道僧にひどいことしてるからなぁ…どうだろ?

王女マルガレータはノルウェー王スヴェッレ1世妃になりました。



娘に反旗を翻されちゃった
マグヌス2世妃 ブリギッタ・ハーラルスドッテル


1131頃~1208/在位 1160~1161

エリク聖王を殺してたった1年だけ王位についたマグヌス2世の妃は
ノルウェー王ハーラル4世の庶子でした。
母親は不明ですが、たぶん長い間ハーラルの愛妾で、シグル2世の母でもある
トーラ・ゴットルムスダターではないかと思われます。

母イングリッドがインゲ1世の孫娘なのでマグヌスも継承権を主張していました。
ノルウェーがのっかったんじゃないでしょうかね?
         
マグヌスの死後、ブリギッタは、当時勢力があったビェルボ家の
ヤール(摂政)ビュリイェル・ボルサと再婚しました。

ブリギッタとビュリイェルの娘インゲゲルドはスヴェルケル2世の後妻になりました。

ビェルボ家は後々王と匹敵する、というか、まさに王としか言えないヤール(摂政)
ビュリイェルを生むんですけど、当時も権力が王並みにあったと思われます。
1205年にはインゲゲルドと実家である王家の間で争いが勃発してます。

ブリギッタは夫が亡くなった1202年以降はRiseberga修道院で
静かに余生を送っていて、死後もそのまま葬られました。

(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)

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