![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/d1/2a7738dbb81b8215307d8cc9f44605bd.jpg)
たおやかに見える肝っ玉母さん
アレクサンドル3世妃 マリーヤ・フョードロヴナ
1847~1928/在位 1881~1894
アレクサンドル2世の皇太子ニコライは1864年にデンマーク王女マリイと婚約しました。
ところが改名したマリーヤもモスクワに入りいざ結婚という時にニコライが亡くなります。
ニコライはマリーヤに弟のアレクサンドルと結婚してほしいと言い遺して逝きましたが
彼女は一度故国に帰りました。
1666年、傷心のマリーヤのもとをアレクサンドルが自ら訪れ婚約となりましたが…
兄の言いつけに忠実だったのかしら? それとも兄の許嫁に恋していたんでしょうか?
マリーヤの姉アレグザンドラは大英帝国の皇太子エドワード(後の7世)妃になるし
兄はギリシャ王になりますので、ロシアはようやくヨーロッパ各王室と
深い繋がりを持つようになったのですが…時すでに遅し、かも。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/53/e3610f83151ea363a65220b7641a331c.jpg)
あのアンデルセンにも見送られてコペンハーゲンを発ったマリーヤは
モスクワでもとても温かく迎えられました。
美しいマリーヤは人気者でしたが、でしゃばらず政治にも口を出さず
ロシア語の習得と慈善や社交など、皇室のサポートに専念していました。
1881年にアレクサンドル2世が暗殺されアレクサンドル3世が即位しますが
首都での革命運動は激しくなる一方で皇帝一家は厳しい警護下におかれていました。
一家は難を逃れるために郊外の宮殿を利用していたそうです。
皇帝は首都より田園の方がお好みだったようでのびのびと暮らしていましたが
マリーヤはかなり厳しい母親で、子供たちはのびのびできなかったようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/42/c5b0ca5c76f64870020c243ab50ae7ae.jpg)
こちらお写真です
優しそうな方とお見受けしますが…
1888年、皇帝一家が列車で移動中、老朽化した列車の屋根が落ちて
アレクサンドル3世が肩で屋根を支えて家族を守るという事故がおきます。
皇帝が乗る列車だというのに…信じられない![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp27.gif)
幸い皆無事ででしたがアレクサンドル3世は腰を痛め、その上酒好きがたたって
肝臓の具合も悪くなる一方で体調を崩していきます。
1894年アレクサンドル3世は肝臓疾患で亡くなりました。
マリーヤはもちろん悲しみましたが「皇帝の安らかな顔を見ていたら勇気が湧いてきた」
ということで、今まで以上に家族を厳しく見守り
遺されたロマノフ一家に多大な影響をもたらすようになりました。
革命がおこった時マリーヤは赤十字の仕事でキエフにいました。
身の危険を感じてクリミアに向かっている最中ニコライ2世一家殺害の報せが入りますが
その後エカテリンブルクに収容されているという使いを受けました。
このことから彼女は死ぬまで、息子の一家はどこかで生きていると
知人に言い聞かせていたそうです。
あまり重要視されていなかったのか、マリーヤは革命政府から
デンマークへの帰国を許されました。
彼女のもとへは皇妃と慕うロシアの亡命貴族たちが集まるようになりました。
後継者指名の要請もありましたが、政治的な動きに関わりたくなかったようで
「誰もニキが殺されたところを見ていないでしょう」と辞退したそうです。
これには誰も面と向かって反論しなかったらしい…
異国人でありながらロシア貴族たちの拠り所となっていたマリーヤは
80歳でコペンハーゲンで亡くなりました。
もし彼女が人望や人脈を総動員して貴族たちを集結させていたら
今日のロシアはどうなっていたかしら?
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)
アレクサンドル3世妃 マリーヤ・フョードロヴナ
1847~1928/在位 1881~1894
アレクサンドル2世の皇太子ニコライは1864年にデンマーク王女マリイと婚約しました。
ところが改名したマリーヤもモスクワに入りいざ結婚という時にニコライが亡くなります。
ニコライはマリーヤに弟のアレクサンドルと結婚してほしいと言い遺して逝きましたが
彼女は一度故国に帰りました。
1666年、傷心のマリーヤのもとをアレクサンドルが自ら訪れ婚約となりましたが…
兄の言いつけに忠実だったのかしら? それとも兄の許嫁に恋していたんでしょうか?
マリーヤの姉アレグザンドラは大英帝国の皇太子エドワード(後の7世)妃になるし
兄はギリシャ王になりますので、ロシアはようやくヨーロッパ各王室と
深い繋がりを持つようになったのですが…時すでに遅し、かも。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/53/e3610f83151ea363a65220b7641a331c.jpg)
あのアンデルセンにも見送られてコペンハーゲンを発ったマリーヤは
モスクワでもとても温かく迎えられました。
美しいマリーヤは人気者でしたが、でしゃばらず政治にも口を出さず
ロシア語の習得と慈善や社交など、皇室のサポートに専念していました。
1881年にアレクサンドル2世が暗殺されアレクサンドル3世が即位しますが
首都での革命運動は激しくなる一方で皇帝一家は厳しい警護下におかれていました。
一家は難を逃れるために郊外の宮殿を利用していたそうです。
皇帝は首都より田園の方がお好みだったようでのびのびと暮らしていましたが
マリーヤはかなり厳しい母親で、子供たちはのびのびできなかったようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/42/c5b0ca5c76f64870020c243ab50ae7ae.jpg)
こちらお写真です
優しそうな方とお見受けしますが…
1888年、皇帝一家が列車で移動中、老朽化した列車の屋根が落ちて
アレクサンドル3世が肩で屋根を支えて家族を守るという事故がおきます。
皇帝が乗る列車だというのに…信じられない
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/gp27.gif)
幸い皆無事ででしたがアレクサンドル3世は腰を痛め、その上酒好きがたたって
肝臓の具合も悪くなる一方で体調を崩していきます。
1894年アレクサンドル3世は肝臓疾患で亡くなりました。
マリーヤはもちろん悲しみましたが「皇帝の安らかな顔を見ていたら勇気が湧いてきた」
ということで、今まで以上に家族を厳しく見守り
遺されたロマノフ一家に多大な影響をもたらすようになりました。
革命がおこった時マリーヤは赤十字の仕事でキエフにいました。
身の危険を感じてクリミアに向かっている最中ニコライ2世一家殺害の報せが入りますが
その後エカテリンブルクに収容されているという使いを受けました。
このことから彼女は死ぬまで、息子の一家はどこかで生きていると
知人に言い聞かせていたそうです。
あまり重要視されていなかったのか、マリーヤは革命政府から
デンマークへの帰国を許されました。
彼女のもとへは皇妃と慕うロシアの亡命貴族たちが集まるようになりました。
後継者指名の要請もありましたが、政治的な動きに関わりたくなかったようで
「誰もニキが殺されたところを見ていないでしょう」と辞退したそうです。
これには誰も面と向かって反論しなかったらしい…
異国人でありながらロシア貴族たちの拠り所となっていたマリーヤは
80歳でコペンハーゲンで亡くなりました。
もし彼女が人望や人脈を総動員して貴族たちを集結させていたら
今日のロシアはどうなっていたかしら?
(参考文献 デヴィッド・ウォーンズ『ロシア皇帝歴代誌』 Wikipedia英語版)