まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スペイン王カルロス2世妃 マリアナ

2009-05-08 00:48:58 | スペイン王妃・王女
“ 喧嘩上等!” の満たされぬ王妃
カルロス2世妃 マリアナ・デ・ネオブルゴ


1667~1740/在位 1690~1700

マリア・ルイサが亡くなるとスペイン大使たちはすぐにお妃選びを始めます。
プファルツ選帝候フィリップ・ヴィルヘルムの娘マリアナに白羽の矢が立ったのは
マリアナの両親が23人 の子を生んだという多産家系であったからでした。
また、姉エレオノーレが神聖ローマ皇后になっていたので
再びハプスブルク家との繋がりが強くできると考えられたのです。
     
1690年に結婚したふたりでしたが、ふたりの間にまったく愛情は無く
カルロス2世は前妻マリア・ルイサを思い出しては嘆き悲しむという毎日…
一方マリアナは、子供が出来ないのはあんたのせいだ!と怒りを爆発させ
カルロス2世を恐れさせていました。 こわいね

うさばらしというか、マリアナは宮廷の金を自分や家族のためにばかり使ったり
王宮のコレクションである高価な絵画を持ち出してはドイツの実家に送るという
盗人もどきのことをして、スペイン宮廷中から嫌われてしまいます。

その上、世継ぎを諦めると自分の甥であるカルロスを次の王にしようと積極的に働きかけて
曾孫ヨーゼフを後継者にしようとする母后マリアナ
ののしり合いの大げんかを繰り返すようになりました。

マリアナの散財のせいか王家の財政が逼迫して、カルロス2世に手持ちの金が無くなった時、
しぶしぶ宝石類を質に入れましたが、よほど頭にきたのか
故郷の家族にまで怒りの矛先を向けます。
姉たちの方が自分より持参金が多かったといって不平を言い
先妻マリア・ルイサが持参して来た素晴らしい宝石類についても愚痴を書き送りました。
これに対してマリアナの母エリーザベトは「持参金は姉妹みんな一緒だし
オルレアン公の娘と比べたって勝てっこないでしょーが!」という返事を送っています。
「よその家はよその家!」って、子供の頃よく言われましたねぇ…

1700年、カルロス2世は亡くなる時
マリアナに充分な年金が与えられるようにと言い遺しました。

結局マリアナの推したカルロスも、母后が推したヨーゼフもスペイン王には
なりませんでしたが、新しい王を敬うようにと言い聞かせたそうです。
聞くわけないと思うがね…

新しく王になったブルボン家のフェリペ5世が
「自分が到着する前に宮廷を出て行くように」と言ってきたため
マリアナはトレドに移ります。

年金がちゃんと払われていたのかどうか分かりませんけれど
マリアナは翌年には早くも実家に援助を求めています。
兄のヨーハン・ヴィルヘルムは「身からでた錆じゃんか」と言いながらも
姉のエレオノーレ皇后に「お金出してあげて」と頼んでいます。

マリアナはトレドで「誰もが私を邪魔者にするのよっ!」と
不平たらたらで暮らしていましたが、1706年に甥のカールが攻め込んできた時に
大喜びで敵軍を歓迎したため、ついにフェリペ5世に国外追放を言い渡されました。

いくつかの場所を点々としたあと、フランスのバイヨンヌに落ち着いたマリアナは
世間からは忘れ去られていきましたが、1739年、死ぬ前に…とスペイン行きを思い立ち
1740年グアダラハラで亡くなりました。

遠くの国で自分の地位や居場所を得ようとしたら、少しは強い女でなくてはね。
完全アウェーなわけで意志がしっかりしてないと挫けてしまいます。
ただ強いだけでもねぇ…子供の喧嘩じゃないのでね。

(参考文献 佐竹謙一氏『浮気な国王フェリペ4世の宮廷生活』
      岩根圀和氏『物語 スペインの歴史』 Wikipedia英語版)

浮気な国王フェリペ四世の宮廷生活 岩波書店


このアイテムの詳細を見る

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『ミザリー』キャシー・ベイ... | トップ | 『書斎の死体』言い逃れできる? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

スペイン王妃・王女」カテゴリの最新記事