まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

神聖ローマ皇帝カール1世大帝妃 ヒミルトルーデ

2010-11-11 00:03:48 | ドイツ系王妃
                こちらは8世紀のドイツの貴族

まだ結婚制度がうるさくなかったらしい・・・
カール1世大帝妃 ヒミルトルーデ


742頃~780頃/在位せず

以前ハプスブルク家になってからの神聖ローマ皇后をご紹介したのですが
神聖ローマ帝国はもっと前からありました。
そこで帝国誕生からの皇后を紹介したいと思います。

そもそも神聖ローマとは…長くなるからものすごくはしょりますけど
395年に古代ローマ帝国分裂後、旧帝国は東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂します。
後々ビザンツ帝国となる東ローマはおいといて、西ローマ帝国は覇権争いの末476年に滅亡、
メロヴィング家が樹立したフランク王国が次第に勢力を増していきましたが
751年にカロリング家のピピンがフランク王となり、さらに勢力を拡大、
息子カール(シャルルマーニュ)の頃に西ヨーロッパのほぼ全てを掌握します。

当時のローマ教皇レオ3世は教皇の権力復活をかけて西ローマ帝国復活を思いつき
カールを皇帝に推挙、カールは800年に西ローマ皇帝として戴冠しました。
だから厳密にいうとまだ神聖ローマ帝国ではないのですが
キリスト教の最高峰である教皇がお墨付きを与える皇帝の神聖な国なわけだから…

で、カール大帝ですが3~6回結婚しています。
なぜに曖昧な数かというと、文献によって相手の女性の扱いが違うからです。

まずヒミルトルーデ、彼女も正式に結婚したかどうか不明です。
どちらかというと “ 内縁の妻 ” 的な要素が多いように思われます。

第一にアルザスの貴族らしいということ以外素性がほとんどわからないことですね。
彼女の名はほとんど文書に登場していないということです。

第二に、カールのフランク王即位の時にはすでに側にいたとされるのに
妃としての記録が一切無いことです。
カールの母ベルトラダは、ちゃんと王妃としての記載がありました。

第三に、同盟の証しとしてカールがランゴバルト王女デジデレータと
結婚することになった時も生存中で、しかも結婚式の時も側にいたらしいこと。
うーん…やはり正式な妻ではなかったくさいですね。

しかし、やはりカールとデジデレータの結婚後は宮廷から退けられたようで
一切の記録がなくなります。

ニヴェルの修道院で見つかった40代女性の遺体がヒミルトルーデとされているそうで
調査の結果770年以降までは生きていたようです。

お子さんもふたり生まれているのですけどね…
こんなに昔から家柄で正式な妃になれる女性となれない女性が分けられていたなんて…

ともあれあまり結婚に関してうるさくなかったみたいですね。
ローマ教皇レオ3世からして自堕落な生活を送っていたらしいからしかたないかも。

      

1年で里に帰されるとは・・・
カール1世大帝妃 デジデレータ


生没年不詳/ (神聖ローマ皇后)在位せず (フランク王妃)770~771

そんなわけで、カール大帝はヒミルトルーデがいるにもかかわらず
ランゴバルドとの同盟のためデジデリウス王の王女デジデレータと結婚しました。
が、両国の関係は良くなるどころか悪化し、翌年結婚が無効になりました。

フランク王国とランゴバルド王国はその3年後、本格的に戦争に突入します。

ちなみに、デジデレータの妹ゲルペルガはカール大帝の弟で共治王のカールマンと
結婚してまして、カールマンが亡くなった771年に、やはり故郷に逃げ帰ってます。

二人の娘が出戻りになってしまうなんて…ランゴバルド王のご立腹も致し方無し、
という気がします。

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 堀越孝一氏『中世ヨーロッパの歴史』
      Wikipedia英語版)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« デンマーク王フレデリク6世愛... | トップ | 神聖ローマ皇帝カール1世大帝... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ドイツ系王妃」カテゴリの最新記事