まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スコットランド女王 メアリー

2009-01-25 01:18:53 | スコットランド王妃・王女
天国と地獄をみた
スコットランド女王 メアリー・ステュワート


1542~1587/在位 (スコットランド女王)1542~1567
           (フランス王妃)1559~1560

あまりにも有名な女王メアリーは、イングランド女王エリザベス1世
比較されることが多いのですが、どちらサイドにたって書かれたのかで
かなり印象が違う女性です。(歴史って、えてしてそんなものですけどね)

メアリーは父王の死によって生後6日で女王に即位しますが
なにしろ赤ちゃんですからね、もちろん何もできるわけではありません。
しかし幼い女王には花婿候補がぞくぞく現れます。
ヨーロッパはカトリック、プロテスタント入り乱れて覇権争いのまっただ中で
スコットランドを手中におさめたい国は数多ありました。

中でもイングランドのヘンリー8世は、王太子エドワードとの結婚を
しつこくしつこくせまります。
スコットランドは国力も低下していてイングランドと闘う力はありません。
イングランド支配は逃れたいものの、面と向かって断る勇気もありません。
結局、王太后メアリー・オブ・ギーズの意向で、5歳の時にフランスに留学させられます。

ゆくゆくはフランス王太子フランソワとの結婚がみえみえなこの留学、
スコットランドはイングランドを警戒し、影武者を2、3人たてるほどの用心をします。
メアリーは無事フランスに到着しました。

フランスでのメアリーについては、“ フランス王妃篇 ”
やる気か?私は)でふれるとして
未亡人となってイングランドに帰国してからのメアリーを簡単にご紹介。

フランス宮廷において、屈指のラグジュアリー&ゴージャスな生活を送ってきたメアリーは
即座にスコットランドの宮廷に退屈しはじめ虚しさを募らせていきます。

スコットランドにとって、若き未亡人メアリーは最大の外交手段だったのですが
彼女はそんなことおかまいなしに、手近なところで婿を見つけ再婚してしまいました。

相手は彼女の従兄弟にあたるダーンリー卿ヘンリー・ステュワートで
イングランド仕込みの小粋な青年でした。
メアリーはすぐに心奪われ4ヶ月で結婚しますが、この結婚は半年で破綻します。

ちなみにメアリー同様、ダーンリー卿も
ヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーの孫にあたり
二人の息子ジェイムズ6世がイングランド王位を継ぐ要因になります。

       

嫉妬深い夫に寵臣リッチオを殺され、軟禁されたメアリーは
脱走に手を貸してくれたボスウェル伯ジェイムズを愛するようになります。
翌年、ダーンリー卿が変死しますが、付近にボスウェル伯がいて疑われたこと
さらにはそのボスウェル伯とメアリーが結婚したことで
スコットランドはメアリーを廃位し、幼い息子(またですか?)を即位させます。

抵抗を試みたものの失敗し、ボスウェル伯も失ったメアリーは
エリザベス1世を頼ってイングランドに逃走します。
これはかなり厚顔無恥な行動です。

自らにイングランドの王位継承権があるメアリーは
かねがねエリザベス1世の王位継承の不当性を訴えていて
自分の紋章にイングランド王の紋まで入れていました。

エリザベス1世だって困ります。
一応親族ではあるし、人目もあるしで無下に扱う訳にもいきません。
そんなわけで(かなり自由な)軟禁状態におくわけですが
メアリーは助けてもらっていながらその後もイングランド王位を主張したり
反エリザベス派と会ったりして全く反省する様子がありませんでした。
軟禁から19年後、とうとうクーデターの首謀者として処刑されることになります。
(無実だという説もありますが)

なんていうのでしょう、生まれながらの女王ですから
人の上に君臨していない自分というのが理解できなかったのでしょうね?
一度味わったら忘れられない権力者の蜜の味・・・返り咲きたかったのでしょうか?
ただ、生まれながらの女王にしてはかなり思慮に欠ける女性であったような気がします。

この後、スコットランド王ジェイムズ6世は、母親があんなに欲しがっていた王位を継承して
イングランド王ジェイムズ1世となります。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』『英国王室史話』)
コメント (3)
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スコットランド王ジェイムズ5世妃 メアリー

2009-01-25 01:16:08 | スコットランド王妃・王女
常に実家頼みだった王妃
ジェイムズ5世妃 メアリー・オブ・ギーズ


1515~1560/在位 1538~1542

先妻マデリーン・オブ・ヴァロアを亡くしたジェイムズ5世は、再びフランスを訪れます。

マデリーンが亡くなる1ヶ月前、メアリー・ド・ギーズは夫のロングヴィル公を亡くし
未亡人になっていました。

思いおこせば、マデリーンへの最初の求婚が断られた時
ジェイムズ5世はメアリーにうつつをぬかしたものでしたね。
今ふたたび未亡人になったメアリーに俄然熱い視線を注ぎます。

    

ところがジェイムズ5世の叔父にあたるイングランド王ヘンリー8世は
この動きに警戒心を抱きます。
フランスとスコットランドの同盟関係が強まることを怖れたヘンリー8世は
3人目の妻を亡くしたばかりでしたので、急いでメアリーに求婚します。
しかしヘンリー8世の、最初の妻キャサリン・オブ・アラゴン
2人目の妻アン・ブーリンへの仕打ちを知っていたメアリーは
まったく相手にしようとしませんでした。

フランソワ1世は、ジェイムズ1世の申し入れを容認し、メアリーの父に伝えますが
彼女は息子ルイを亡くしたばかりで、家族の側を離れたくないと悩みます。
結局、ジェイムズ5世の一生懸命な説得に負けてスコットランドに嫁ぎました。

二人の王子を生んだメアリーでしたが、王子は幼くして同時に夭逝します。
その翌年、長女メアリー(後の女王)を生みました。
その時ジェイムズ5世はイングランドに敗れた失意で病床にいましたが
報告を受けてただひと言「女か…」と言ったそうです。
病状は悪化し、メアリー誕生から6日後に亡くなりました。

幼い女王を抱えたメアリーは万事をフランスの実家に頼り
娘を幼いうちにフランスへ渡らせたりして、女王の人生に多大な影響を与えます。
45歳でエディンバラで他界し、なぜかフランスに埋葬されました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ジェイムズ5世妃 マデリーン

2009-01-25 01:14:59 | スコットランド王妃・王女
命を縮めた結婚
ジェイムズ5世妃 マデリーン・オブ・ヴァロア


1520~1537/在位 1537

ジェイムズ5世は、1歳5ヶ月で即位しましたが
王太后マーガレット・テューダーがほどなくイングランドに追放され
摂政オールバニー公を始めとする親仏派に囲まれて育ったせいか
自らもフランスびいきになっていきました。

なにしろ幼い王、戦乱に陥っていたヨーロッパで少しでも同盟国を増やしたい各国の王は
ジェイムズ5世に熱い視線を向けました。
後のイングランド女王メアリー・テューダー
後のフランス摂政カテリーナ・ディ・メディチなど
婚姻の申し入れは山のようにありました。

そんな中、お年ごろになったジェイムズ5世は、同盟関係の強化や莫大な持参金を考え
フランス王フランソワ1世の娘マデリーンに求婚します。

     

マデリーンは生まれたときからか弱く、フランソワ1世は彼女を
パリより暖かい地方で大事に大事に育てていました。
ですから、スコットランドの過酷な気候には娘が耐えられないと思い
健康を理由に申し出を断りました。

するとジェイムズ5世はとっととマリー・ド・ギーズに目を向けます。
ただ、当時マリー・ド・ギーズは既婚ですから、不倫か
あるいは、すでに夫の病状が危なかったのかもしれません。

けれどもジェイムズ5世は宮廷でマデリーンを見かけると
自分の行いが恥ずべきことに思えてきました。
なんか・・・ラブ・ストーリーっぽくなってきましたねっ
そして再びフランソワ1世に結婚を申し入れます。

フランソワ1世はあきらかに嬉しそうなマデリーンを見て断りきれず
しぶしぶ結婚を認めました。
あぁ、娘可愛さが裏目にでてしまうのですね。

1937年1月、フランスで式を挙げた二人は5月にスコットランドへ向かいますが
その2ヶ月後、マデリーンはエディンバラで17年の短い生涯を終えます。

私利私欲のためなら娘の幸せや人生なんか顧みない父親が多いこの時代、
身体を心配してくれた父王の反対をおしきってまで果たした結婚は
数ヶ月の儚いものでしたが、マデリーンは幸せだったかもしれないですね。
いやな相手と結婚させられるよりも、自分が望んだ相手と結ばれたのですものね。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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