まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スコットランド王ロバート2世妃 エリザベス

2009-01-18 19:43:19 | スコットランド王妃・王女
               肖像画は王妃ユーフィミア・ドゥ・ロス

夫と二度結婚した妻
ロバート2世妃 エリザベス・ミュア


~1355/在位せず

デイヴィッド2世とエドワード・ベイリャルという二人の王がいながら
ほとんど国にいやしない という不思議な時代
摂政としてスコットランドを守りきったロバート・ステュワートは
二人の王に継嗣がいなかったことから、ロバート2世として55歳で即位します。

ロバート1世の孫にあたるロバートは、王位簒奪に出てもおかしくはないのですが
平和主義者なのかなんだか、王位を奪うことなく役職をこなしていました。

そんな摂政時代に結婚したのがエリザベスです。
もともとエリザベスは愛妾で、1336年に正式に結婚したのですが
その正当性を非難されたため、1347年に教皇の特免状を受けて再度結婚します。
これは、たぶん子供たちを正式な継嗣とするための措置だったろうと思います。

1355年に他界します。



子だくさんの王を支えた
ロバート2世妃 ユーフィミア・ドゥ・ロス


~1386/在位 1371~1386

エリザベスの死後再婚したユーフィミアの母はロバート1世の妹マティルダなので
ユーフィミアはロバート2世の叔母にあたります。
生年がはっきりしていないので分かりませんが、姉さん女房だったのでしょうか?

     

最初の夫はマリ伯ランダルフで、1346年に死別しています。
ユーフィミアはエリザベスの生前からロバート2世の愛妾だったようで
エリザベスが亡くなった年に再婚しました。

ユーフィミアは2男2女を生みますが、ロバート2世には前妻エリザベスとの間に
すでに9人の子供がいました。
また、ロバート2世はかなりの男前さんだったらしく、愛妾が数名いたようで
その間に生まれた庶子も8人、計21人の子だくさんでした。
もちろんユーフィミアが全ての子供の面倒を一人でみていたわけではないでしょうが
問題児も多く苦労したことでしょう。

王に先立つこと4年、1386年に亡くなりました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王デイヴィッド2世妃 ジョアン

2009-01-18 19:43:04 | スコットランド王妃・王女
囚われの女王
デイヴィッド2世妃 ジョアン・オブ・イングランド


1321~1362/在位 1329~1332、1346~1362

イングランド王エドワード2世の娘ジョアンは
8歳の時、ノーサンプトン条約によって5歳のデイヴィッドと結婚します。

この結婚は、破竹の勢いでイングランドに勝ち進んでいたロバート1世の申し入れを
エドワード3世の摂政イザベル・オブ・フランスと愛人マーチ伯ロジャーが受け入れたもので
イングランド側では屈辱的な結婚として物議を醸しました。

       
結婚後ほどなくして、デイヴィッドは父王の死によりデイヴィッド2世として即位しますが
1年ほどで、親政にのりだしたイングランド王エドワード3世の巻き返しにあい
彼が推したエドワード・ベイリャルに王位を追われました。
6歳の王と9歳の王妃はフランスに逃れます。
ちゃんと訳が分かっていたのでしょうか? 「お泊まりだ!」なんてはしゃいだりして…

1339年にフランス王フィリップ6世の後押しを受けてスコットランドに戻り
1346年、イングランドから戻って来ないエドワード・ベイリャルに替わって復位します。
しかし同じ年にイングランドに攻め入って逮捕され
王妃ともどもロンドン塔に囚われの身になります。 忙しいですね

ジョアンは実の兄に囚われたことになりますね。
彼女は “ ジョアン・オブ・ザ・タワー ” と呼ばれます。

2人は厚遇されたらしく、一歩先行くイングランドでおもしろ可笑しく暮らしていたので
11年後にスコットランドに帰国すると「退屈だ」と言いだします。
デイヴィッド2世は、なんたることか! 1363年には自らロンドンに戻ってしまい
以後スコットランドには帰国しませんでした。

ジョアンは先立って戻っていたのか、1362年イングランドで亡くなり
ロンドンに埋葬されました。



離婚宣告と戦った王妃
デイヴィッド2世妃 マーガレット・ドゥラモンド


1340~1375/在位 1364~1370

マーガレットは最初にサー・ジョン・ロッジと結婚しますが
ジョアンを亡くしてやもめになったデイヴィッド2世の愛人になり
1年半後に正式な妻になりました。
しかし世継ぎが生まれなかったことから、1369年に離婚を宣言されてしまします。

ところがマーガレットは大人しく聞き入れるような女性ではありませんでした。
アヴィニヨンに出向き、教皇に離婚の無効を訴える決心をします。
これはうまくいかず、1370年に離婚されます。
王より4年長生きして亡くなりました。

ちなみに、マーガレットから4代数えた姪のマーガレット・ドゥラモンドは
スコットランド王ジェイムズ4世の愛妾になりました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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静岡のお花たち

2009-01-18 17:32:44 | 鉢植え
近所の東急で “ 静岡のお花フェア ” をやっていたもので
久々に鉢花を購入しました。

ガーベラは種から育てるのが難しいということだったので
鉢花を探していました。
赤とピンクを即買いです。
バラ咲きポリアンというのは初めて見ましたが
あまりにも可愛らしいので買ってみました

寒さに負けずに春まで咲き続けてくれるといいのですが・・・
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スコットランド王ロバート1世妃 イザベル

2009-01-18 02:58:39 | スコットランド王妃・王女
1年あまりの結婚生活
ロバート1世妃 イザベル・オブ・マー


1277~1296/在位せず

ウィリアム1世の弟ハンティングダン伯デイヴィッドの玄孫にあたるロバートは
1906年、スコットランドがイングランドの支配にあい、10年ほど王が不在だった後
自ら宣言して王になりました。
もちろん、皆が賛同していたわけではなく、その後は戦いに明け暮れます。
          
しかし、最初の妻イザベルを娶ったのはそのずっと前で
王妃になったのは二人目の妻でした。

イザベルの父マー伯ドナルドはスコットランドの重臣のひとりで
早くからロバート即位を支持していました。
イザベルは18歳の時、キャリック伯だったロバートと結婚します。
イザベルの母ヘレンは、エドワード1世に滅ぼされたウェールズのプリンス
ルーリアン・ザ・グレイトの妹と言われています。

ロバートはイザベルの3歳年上で、ふたりはそれはラブラブだったそうですが
イザベルは、19歳で一人娘のマージョリーを生むと間もなく亡くなってしまいます。
たった1年あまりの結婚でしたが、この時代にあって相思相愛でいられたというのは
とても幸せなことだったかもしれないですね。



             

夫とともに戦地を転々とした王妃
ロバート1世妃 エリザベス・ドゥ・バラ


1289~1327/在位 1306~1327

イザベルを失った6年後の1902年、ロバートは再婚します。
ロバートは28歳、エリザベスは13歳でした。
再婚相手のエリザベスの父アルスター伯リチャードは、イングランド王エドワード1世の
親しい友人だったことから、ふたりはイングランド宮廷で出会ったと思われます。
(ロバートは、エドワード1世に進んで臣従していた時代がありました。
 その後反旗を翻したので変わり身が早いと言われるようになったのです)
            
1306年に王位を宣言した際、ロバート1世は自ら戴冠しましたが
さすがにうしろめたく思い、2日後エリザベスとともに戴冠を受けます。

即位後もイングランドとの戦いは延々と続き、エリザベスは1914年まで
ヨークシャー、バークシャー、エセックス、などイングランドの各地を
転々としています。

だからといって戦いを容認していたわけではなく、王やその追従者たちについて
「王様ごっこをしている」とクールに言い放っていたということです。

38歳で他界しますが、きっと忙しい一生だったのでしょうね?

 余談です
同じような肖像画に見えますけど・・・
王妃のドレスの模様は、生家の紋章になっております。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ジョン・ベイリャル妃 イザベル

2009-01-18 02:30:19 | スコットランド王妃・王女
夫も息子もイングランドの操り人形
ジョン・ベイリャル妃 イザベル・ドゥ・ワーレン


1253~1292/在位せず

アレグザンダー3世によってスコットランドを追われたジョン・ベイリャルは
イングランドでヘンリー3世やエドワード1世に忠誠を尽くして重用されました。
しかし、その息子であるジョンをエドワード1世がスコットランド王に推したのは
ひとえにジョンが “ 御しやすい人物 ” だったからだようです。

      

イザベルの母アリスはイングランド王ヘンリー3世の義妹で
イザベル自身はエドワード1世の従妹にあたります。
ジョンが王位に就く前に亡くなりましたが、たぶん夫を説得するのに
一役かっていたのではないでしょうか?

しかしながら、ジョンだって男です!!
いつまでも操り人形でいるのはイヤだとばかりに、フランスと同盟を結んだりして
イングランドに反抗を試みますが、結局戦いに敗れ3年8ヶ月で廃位に追い込まれます。

ちなみに、ジョンが廃位された後、王不在のスコットランドに総督としてのり込み
スコットランド国民に弾圧を加えたのは
イザベルの父であるサリー伯ジョン・ドゥ・ワーレンでした。

ジョンとイザベルには王子が2人ありましたが、長男エドワードは内乱の最中
1332年に、イングランド王エドワード3世に推されてスコットランド王になります。

でも、やっぱりカエルの子は・・・ってことでしょうか?
3ヶ月でダグラス軍に敗れ、イングランドに逃亡します。
王位には1346年まで就いていましたが、以後スコットランドには戻りませんでした。

父子揃って・・・
イザベルも草葉の陰で情けなく思ったっことでしょう。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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