まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王ルイ7世王女 アニェス

2011-11-16 23:48:46 | フランス王妃・王女
             肖像画が無いので義母マリア・アンティオキア像

異国の地でたらい回し
ルイ7世王女 アニェス・ド・フランス
ビザンツ皇帝アレクシオス2世皇后/ビザンツ皇帝アンドロニコス1世皇后
テオドール・ブラナス夫人


1171~1204/在位 (アレクシオス2世皇后)1180
          (アンドロニコス1世皇后)1183~1185

ルイ7世の末娘アニェスの母親は3人目の妃アデール・ド・シャンパーニュです。

         
アニェスは、ビザンツ皇帝マヌエルの皇太子アレクシオス(2世)に嫁ぐため
7歳の時にフランスを出て、8歳の時にコンスタンティノープルに到着しました。
幼い娘を送り出すルイ7世の親心からものすごく飾りたてられていたそうです。

同じ頃、異母姉のアデールもイングランドに送り出されました。
二人はその後顔を合わせることが無かったと考えられています。

マヌエル1世はイタリア奪回・古代ローマ帝国再興という夢を抱いていて
“ 神聖ローマ帝国 ” なんてぇ帝国があることが許せませんでした。
そこで神聖ローマへの対抗策としてフランスと手を結ぶことに…
ルイ7世もビザンツ帝国の華やかさは、十字軍の際に訪れて知っていたので
アニェスを嫁がせることに決めました。

アニェスの歓迎式典は豪華絢爛でビザンツ帝国史上最も華やかなものだったそうです。

 ひとくち情報
当時の結婚事情では、本当は8歳で結婚しちゃいけなかったそうです。 でも10歳からは良かったらしい…
姉のアデールは教育のために海を渡ってますが、アニェスは到着して半年ぐらいで結婚式をあげたばかりか
“ 完全に ” 結婚を成し遂げたっていうことです。 床入りをしたということか? 10歳と8歳で… 


アニェスはコンスタンティノープルの美しさときらびやかさに歓び
幸せなスタートをきりました。
名前はアンナに改名されました。

しかし、幸福は長くは続きませんでした。
結婚式の半年後、ビザンツ帝国最後の栄華を担ったマヌエル1世が亡くなりました。
アニェスの夫アレクシオスが即位しますが10歳ですものね。
実権は摂政であるマヌエル1世皇后マリア・アンティオキアが握っていました。
ま、それはいいんだけどさ… 幼い王を抱えたお母様摂政は政敵に狙われ易いものです。

まずは、摂政の座を狙って、アレクシオス2世の異母姉マリアが暗躍しました。
これは事なきを得たんですが、続いてマヌエル1世の従兄弟アンドロニコスが
「待ってました!」と反乱をおこしました。

1182年、アンドロニコスは皇太后マリアを失脚させて摂政につきます。
そして異母姉マリア夫婦を殺害、その後皇太后マリアを処刑しました。
もうアレクシオス2世の運命は決まったようなものです。
アンドロニコスは、1183年に共同皇帝になるとすぐにアレクシオスを殺害して
単独で皇帝の座に就きました。

古代ローマでもあったような気がするんですけど、ビザンツ帝国でも
無理くり皇帝になった人が、前皇帝の皇后と結婚して地位をかためることがあったようです。

しかしアニェスは12歳、アンドロニコスは65歳ぐらい… さすがに躊躇したようで
息子のマヌエルと結婚させようとしました。
ここらへんは少し見直した… ルイ15世だったら躊躇しないわね。

この縁談を息子マヌエルが拒否したため、アンドロニコスは “ しかたなく ”
アニェスと結婚することにしたようです。
ちなみに、アンドロニコス1世は二人の姪や皇太后マリアの姉妹などを愛妾にしてました。

こんな再婚、ひどすぎる!
短い間とはいえ夫婦として過ごし、少し愛も感じていた夫を殺した(しかも自ら手を下した)
相手(しかもすげぇ年上)と結婚しなきゃならないなんて

この結婚は内外から非難されましたし、アニェスも泣き暮らしたようなんですが
実家のフランスはなんら抗議しなかったらしい… フィリプ2世は実の兄なのに…
フィリプ2世は十字軍に参加したときもコンスタンティノープル素通りで
アニェスを訪ねることはありませんでした。
ハンガリー王妃になっていたマルグリットも巡礼の時にビザンツを通りましたが
アニェスには会わなかった様子… こちらは異母姉だからなぁ… でもせっかく来たのにさぁ…

1185年、アンドロニコス1世は市民の暴動に遭って失脚します。
なんでもアニェスだけでなく愛妾も連れて逃げたそうで、すぐに捕らえられ
市民のリンチを受けて殺されました。

フランス王女のアニェスはリンチから免れ、アンドロニコスの財産が少し与えられましたが
その後の消息ははっきりしていません。

1193年にはテオドシウス・ブラナスの恋人になっていました。
どうやらそれまでブラナス家で養ってもらっていたみたいです。
その後のアニェスはブラナス夫人として扱われていましたが
財産の件があって正式な結婚はしないまま時が過ぎていきました。

1204年、十字軍によるコンスタンティノープル陥落の後
アニェスは元ビザンツ皇后として、再びヨーロッパ貴族から注目を集める存在になりました。
けれどもアニェスはフランス語を忘れてしまっていて通訳を介してしか話せず
次第に評判を落としていきました。
でもこの年にやっと、アニェスとブラナスは正式に結婚しています。

遠い記憶にしかないヨーロッパの貴族たちの評判なんかより、
愛する人とちゃんと結婚できて、アニェスは幸せだったんじゃないでしょうかね?

ビザンツ帝国は各国から覇権を争われ、いろいろな民族の皇帝が現れてわやくちゃになり
テオドシウスは国内で一時期裏切り者よばわりされたりするんですけど
1219年以降の消息は不明です。
アニェスについても1204年まったく記録が無いのですが1219年以降まで
生存していたようです。

すごく波瀾万丈な一生だったわりに最期がはっきりしないとは…
ブラナス家は軍人としては名門で、父親も英雄となった人らしいのですが
やはり皇后じゃないと記録に残らないか…
せめて立派な墓所に葬られていることを願います。

(参考文献 井上浩一氏『ビザンツ皇妃列伝』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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フランス王ルイ7世王女 アデール

2011-11-08 23:20:37 | フランス王妃・王女
              肖像画が無いので母君コンスタンス像を…

イングランドで人生台無し・・・
ルイ7世王女 アデール・ド・フランス
ポンチュー伯ギョーム4世夫人


1160~1220

ルイ7世の三女マルグリットと四女アデールの母親は
二人目の妃コンスタンス・ド・カスティーヨです。

一人目の妃アリエノール・ダキーテーヌが、イングランド王ヘンリー2世と再婚したことで
領土をめぐるイングランドのプランタジネットとフランスのカペー両王家の
押したり引いたりは激しさを増してまいりました。

コンスタンス・ド・カスティーヨの死後、ルイ7世がアデール・ド・シャンパーニュと結婚し
アリエノールの王女二人がアデルの兄たちと婚約すると、イングランドサイドは
いてもたってもいられず、次男ヘンリーとマルグリット(なんと2歳 )の結婚を急ぎます。

また、1162年には三男リチャード(3世)と、アデールを婚約させました。

         

2歳で婚約したアデールは、8歳の時にイングランドに渡りました。
イングランドで未来の王妃教育を受けるとは言っても、早い話人質ですよね。

それから何年かたちまして、リチャードとアデールがお互い適齢期に達したのですが
ヘンリー2世はいっこうに二人を結婚させようとしませんでした。
婚約から8年後にはローマ教皇アレクサンデル3世が禁令までちらつかせて
結婚をせまりましたが、それでも渋っていました。

アデールはヘンリー2世の愛妾で、子供まで生んでいるという噂が広まっていました。
実際はどうだったのか不明です。
でも、1189年にヘンリー2世が亡くなるとリチャードが婚約者のアデールではなくて
ベレンガリア・オブ・ナヴァールと結婚したりとか
父王ヘンリー2世に激しく反抗して廃人同然になるまで打ちのめしちゃったことを考えると
やはり事実に近いんでしょうかねぇ…

婚約者のまま29歳になり、別の女性と結婚されちゃったアデールはいったい… ?
アデールの異母弟フィリプ2世は、リチャードの弟のジョンとの結婚をもちかけましたが
これはアリエノールが断固拒否!!

結局フランスへ戻り、1195年にポンチュー伯ギョーム4世と結婚しました。
このギョーム4世という方、アデールより19歳年下ですし、初婚ですし
何より悪い噂がある女生との結婚でしょー、
穿った見方をすれば、なんかすごい見返りがあったんではないかと…

アデールの次女マリーとシモン・ド・ダムマルタンの娘ジョアンが
カスティーリャ王フェルナンド3世に嫁ぎ、その王女エリナー
ヘンリー2世の曾孫にあたるエドワード1世の妃になります。
なんだかんだで繋がるものね…

1220年頃に亡くなりました。

ヘンリー2世の愛妾といえばロザモンド・クリフォードが有名です。
アデールはフランス王女だから、もっとエピソードフルな資料がないかしら?
と探してみましたが、日本語版では見つけられませんでした。
さすがにイギリスにはいくつかあるようです。

(参考文献 森護氏『英国王と愛人たち』『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ7世王女 マリー

2011-11-04 22:51:19 | フランス王妃・王女
父の再婚で人生ごたつく
ルイ7世王女 マリー・ド・フランス
シャンパーニュ伯アンリ1世夫人


1145~1198

ルイ7世は3回結婚していて、王女が5人います。
欲しくて欲しくてたまらなかった王子はフィリプ(2世)のみでした。

長女マリーと次女アリックスは最初の妃アリエノール・ダキテーヌの娘です。
ルイ7世は三人目の妃アデル・ド・シャンパーニュと結婚する時に
マリーをアデルの長兄シャンパーニュ伯アンリ1世と、
アリックスを次兄のブロワ伯ティボー5世と婚約させました。
二人の姉妹は婚約後アヴネの修道院で、無菌状態(?)で教育されて
1164年に揃って結婚しました。
         
それでなくても広大な領地を持ち、勢力もあったブロワ・ブラザーズは
妹は王妃、妻は王女というビッグな後ろ盾を得てかなり幅を利かせることができました。

ルイ7世の再婚と王女たちの結婚はアリエノールを焦らせます。
これが王子ヘンリーと、ルイ7世王女マルグリットの結婚を急がせる要因になりました。

父王ルイ7世が亡くなり異母弟フィリプ2世が即位すると状況が変わります。
フィリプは、アリエノール・ダキテーヌがマリーやアリックスに譲った領地を没収します。
それから、マリーの長男アンリと婚約していたイザベル・ド・エノーと結婚してしまいます。
       
このことでマリーとフィリプは当然仲違いします。
一方異父弟のイングランド王リチャード1世とは深い愛情で結ばれていたようです。
(解説しておきますと、リチャード1世は、マリーの母アリエノールが
 イングランド王ヘンリー2世と再婚しまして生まれた王子です)

そのアンリは、ヘンリー2世の従姉妹にあたるイェルサレム女王イザベラと結婚しました。
フランスとイングランドの覇権を争うこの二家族、仲が良んだか悪いんだか、
仲良くしたいんだか争いたいんだか、よくわからんよ…
この状況は後々まで続くんですけどね…
        
1181年、巡礼に行っていた夫アンリが帰国してすぐに亡くなりました。
マリーは幼い息子の摂政を務めます。
息子アンリの婚約者だったイザベルの叔父にあたるフランドル伯フィリプ1世と
再婚話が持ち上がりましたが、これは破談になっています。
ちなみにフィリプはポルトガル王アフォンソ1世の王女テレサと結婚しました。

性格とか容姿に関することがわからないんだけど
文学のパトロンで、専用の図書館を持っていて、ラテン語で読み書きができたというから
才媛だったのかもしれませんね。
夫の不在中や息子の不在中に幾度も摂政を務めていますから
政治的にもきれる人だったのかもしれません。

息子アンリが1197年に亡くなると、モーの修道院に入り翌年亡くなりました。

妹のアリックスも同じような経歴なので割愛しますね。

(参考文献 福本秀子氏『ヨーロッパ中世を変えた女たち』 Wikipedia英語版)
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フランス王フィリプ1世王女 セシル

2011-10-31 23:48:09 | フランス王妃・王女
夫に再婚相手を指名されるってどうよ?
フィリプ1世王女 セシル・ド・フランス
ガラリヤ公タンクレッド妃/ポンス・ド・トリポリ夫人


1097~1145

フィリプ1世とベルトラド・ド・モンフォールの王女セシルとタンクレッドの縁談は
タンクレッドの叔父にあたるアンティオキア公ボエモン1世が
フランス宮廷を訪問中に持ち上がりました。
たぶん異母姉コンスタンスの縁談と同時じゃないでしょうかね?

なんと! 9歳 でアンティオキアに嫁ぎました。
お相手のタンクレッドは20歳ぐらい年上です。
        
タンクレッドはアンティオキア公国建国に携わった人で
ボエモン1世が捕虜になったり、ビザンツの臣下になって
アプリア(イタリア)で暮らしていた間、摂政として実権を握っていた人でした。

タンクレッドはボエモン1世が亡くなった翌年の1112年に亡くなったのですが
その前に妻のセシルとトリポリ伯ポンスを婚約させて持参金に領地まで与えています。

若い(15歳!)未亡人を不憫に思ってのことでしょうか?
それともアンティオキアの安泰を願ってのことでしょうかね?
なんたってボエモン2世は4歳ですから、後ろ盾を増やしておきたかったのかもしれません。
アンティオキアやイェルサレム、ニカイアなどは
キリスト教国が十字軍遠征の際に建国した国です。
気を抜いてるとトルコとかビザンツ帝国に狙われてしまうのでね。

二人が暮らしていたトリポリ(リビア)も同じような境遇で
1133年には夫ポンスがイスラム教国軍に包囲されてしまいました。

この時セシルは異父兄イェルサレム王フルク5世に助けを求めました。
一時は包囲が解かれたものの、4年後に再び包囲されポンスは亡くなります。
        
セシルは1145年に亡くなり聖墳墓教会(イェルサレム)に葬られました。

国内旅行さえままならない時代に、文化も気候も風景も全く違う国へ、
しかも二度と帰って来れる見込みがなさそうな状況で、しかも9歳で嫁ぐって
想像しただけでものすごく可哀想…
王女の人生って、古い時代にいけばいくほど過酷なような気がしてます。



影は薄いが家系図は賑やか
ルイ6世王女 コンスタンス・ド・フランス
ブローニュ伯ウスタシュ4世夫人/トゥールーズ伯レーモン5世夫人


1124~1176

ルイ6世とアデル・ド・サヴォワには8人のお子様が生まれていますが
王女はコンスタンスひとりでだけです。

18歳でイングランド王スティーヴンの王子ブローニュ伯ウスタシュ4世と結婚しました。
      
ウスタシュは1153年に突然亡くなってしまいまして
翌年、トゥールーズ伯レーモン5世と再婚しました。
       
子供は4人生まれたんですが、1165年に血縁関係が近すぎるという理由で
教会から離婚を宣言されてしまいました。
近いったってさぁ~、結婚から12年もたって言われましても…って気がしない?
ちなみにレーモンはコンスタンスより10歳年下なんですよね。
愛妾がいたようで1192年に娘が生まれてます。

当時の教会の「血縁によるうんぬんかんぬん…」という離婚理由は
けっこういい加減なのよね、いとこ同士とかおじと姪の結婚なんか腐るほどあるし。
権力とか寄付金とかに、かなり左右されていたんじゃないかと… (ひとり言)

コンスタンスは1176年に亡くなりました。

(参考文献 ポール・ルメルル『ビザンツ帝国史』 Wikipedia英語版)
コメント (3)
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フランス王フィリプ1世王女 コンスタンス

2011-10-27 22:33:30 | フランス王妃・王女
離婚を勝ち取った王女
フィリプ1世王女 コンスタンス・ド・フランス
シャンパーニュ伯ユーグ夫人/アンティオキア公ボエモン1世妃


1078~1126

ロベール2世のあとを継いだアンリ1世とアンヌ・ド・キエヴには
エンマという王女が生まれましたが幼くして亡くなっています。

アンリ1世の王子フィリプ1世には二人王女がいますが、母親はバラバラです。

長女コンスタンスの母親は、フィリプ1世のいとこの娘にあたるベルタ・ド・ホランドです。
        
15歳~17歳の間にシャンパーニュ伯ユーグと結婚しました。

フィリプ1世はベルタと離婚し、アンジュー伯フルク4世の妻ベルトラドを奪うようにして
再婚したので、アンジュー伯から恨みを買ってました。
そこで対抗措置として、当時最も勢力があったブロワ家の力を得ようとしたわけです。
なんだかひどい話じゃなくて?

けれどもフィリプ1世の思惑通りにはいきせんでした。
ユーグの兄エチエンヌがブロワ家の領地のほとんどを持っていましたし
ウィリアム1世王女アディラと結婚していまして
ほいほいとフィリプの言うことを聞いてくれるわけではなかったんですね。

当時のフランスでは、カペー家が王になっているとはいえ、ノルマン公とか
アキテーヌ公とかブロワ伯とか、王に引けを取らない力を持つ家柄がありました。
ノルマン家は隣国の王になっちゃうし、アキテーヌ公なんて王より広い領土を持ってるし…
王=王侯貴族の班長、みたいなものでしょうか? 国を治めてるってかんじじゃないですね。

結婚から10年後、コンスタンスはいきなりシャンパーニュ伯との離婚を申し立てます。
理由ははっきりしていません。
この離婚、父王フィリプ1世はまったく手を貸そうとしませんでしたが
弟のルイ(後の6世)と、義姉のブロワ伯夫人アディラが全面的にバックアップしました。

離婚申し立ての理由はなんだったんでしょうね? 気になるわ…
その後ユーグはブルゴーニュ伯エチエンヌ1世の娘イザベルと再婚してますが
後にイザベルと息子ウードと縁を切っています。

コンスタンスは1104年に離婚を勝ち取りました。
ちょうどその頃アンティオキア公ボエモン1世がヨーロッパに戻っていました。
ボエモン1世は十字軍の援護とともに妻を必要としていました。

コンスタンスの離婚はグッドタイミング!
フランス王女との結婚で格は上がるし、援軍だって出してもらえるかもしれません。
        
ボエモン1世は結婚後に34,000人の援軍を得てビザンツ(東ローマ)帝国を攻撃しました。
しかしヴェネチアの援護を得たアレクシオス1世は強かった!
ボエモン1世は和平を受け入れたばかりか
アレクシオス1世から報酬をもらう、所謂 “ 臣下 ” になってしまったとさ
コンスタンスはボエモンのいるアプリア(イタリアのプーリア)に移ります。
この間アンティオキアはボエモンの甥タンクレッドが摂政として治めていました。
ちなみにタンクレッドはコンスタンスの異母妹セシルと結婚しました。

ボエモン1世が1111年に亡くなり、1112年に摂政タンクレッドが亡くなると
コンスタンスは5歳の息子ボエモン2世の摂政になりました。
しかしその後バーリ伯グリマルドに投獄されてしまいます。
1120年に摂政を降りる条件で釈放され、1126年に亡くなりました。

成人した子供はボエモン1世との間に生まれた唯一の嫡子ボエモン2世だけです。
孫娘コンスタンチェの娘にビザンツ皇帝マヌエル1世妃マリアと
ハンガリー王ベーラ3世妃アンナがいます。

コンスタンスというよりボエモン1世のエピソードばかりですね。
古い時代にいけばいくほど、女性の記録はあまり残ってないのですね。
余程の偉業が無い限り、美しい(という言い伝え)かものすごい悪女か…
そういう人しか残されてないみたいです。

(参考文献 ポール・ルメルル『ビザンツ帝国史』 Wikipedia英語版)
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フランス王ロベール2世王女 アデール

2011-10-26 21:31:38 | フランス王妃・王女
フランス草創期、大活躍した王女
ロベール2世王女 アデール・ド・フランス
ノルマン公リシャール3世妃/フランドル伯ボードゥアン5世夫人


1009~1079

今回はフランスの王女編…
プリンセスといえば頭に浮かぶのは、フランス風キラキラビカビカな
ヴェルサイユ時代のフランスの宮廷女性たちですよね。
本当のフランス王女たちの人生はどんなものだったのでしょうね?

王妃同様カペー王家からまいります。

初代王ユーグ・カペーと王妃アデライードの間には何人か王女がいたらしいのですが
わかっているのはヘドヴィヒ(970頃~1013)という王女がモンス伯ルノーに嫁いだことと
ジゼル(968頃~1002)という王女がポンチュー伯ユーグ1世に嫁いだことだけです。

ヘドヴィヒとジゼルの兄弟にあたるロベール2世と
3人目の妃コンスタンス・ダルルの次女がアデールです。
長女アリックスはヌヴェール伯ルノー1世に嫁いでいます。

1027年にノルマン公リシャール3世と結婚しましたが、その年のうちに未亡人になりました。
翌年フランドル伯ボードゥアン5世と再婚しました。

        

アデールは実家の権威でフランドル伯家に大きな力をもたらしました。

兄のアンリ1世が亡くなると、夫共々甥である8歳のフィリプ1世の後見人になります。

フィリプ1世の摂政には母親のアンヌ・ド・キエヴが就いていたのですが
フランス語が堪能でないってことで反対意見がおこっていました。
アデールあたりが急先鋒だったんじゃないかしら? なんて… 憶測ですからね。
アンヌ失脚後は義理の兄としてボードゥアン5世が摂政に就きました(ほらね

しかし、大きな力を持つとその権力欲しさに家庭内がドロドロになるのが中世の常…

1071年、アデールの孫にあたるアルヌルフ3世が治めていたフランドルに
アデールの三男ロベールが攻め入りました。
この時アデールはフィリプ1世に頼んで、息子ではなく孫に加勢したんですけど
最終的にはロベールが勝利しフランドル伯になりました。
       
この戦いの1年後、フィリプ1世は、ロベールの継子ベルタと結婚しました。
仲直りのしるしですかね?

アデールは夫ボードゥアン5世の宗教政策、特に教会再建に影響力を持っていたらしく
アイル、リール、ハーレルベーケの教会系大学や
メセン、エナメの修道院などの設立に携わりました。

1067年にボードゥアン5世が亡くなるとローマを訪れ、教皇アレクサンデル2世から
修道女用のヴェールを授けられています。
これが最後の晴れ舞台で、その後はメセンに引退し、そこで亡くなりました。

ローマン・カトリック系教会では、アデールが亡くなった9月8日が記念日になっていて
これは聖人の日並みの扱いだそうです。
いっそのこと聖人にすればいいのにね? (無責任発言です
なにか奇跡がおきなかったのかしら?

お子様は5人で、長女マティルダがイングランド王ウィリアム1世に嫁ぎました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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フランス皇帝ナポレオン3世妃 ウージェニー

2009-04-15 02:22:41 | フランス王妃・王女
正真正銘、最後のフランス王妃(皇后)
ナポレオン3世妃 ウージェニー・ド・モンティホ


1826~1920/在位 1853~1871

ウージェニーはスペインで生まれ育ちましたが
少女時代にパリで暮らしたことがあり、スタンダールと親しくなって
ナポレオン(1世)の話しを聞いているうちに彼の崇拝者になったということです。

美しく理知的だと評判のウージェニーには、ルイ・フィリップ王の王子をはじめ
数多の男性が近づいてきましたが、賢いわりにはミーハーだったのか
“ ナポレオン ” という名に惹かれて、ナポレオン1世の甥ジェロームと
結婚を考えるようになります。
これはルイ・ナポレオン(後の3世)が反対したためうまくいきませんでした。
狙ってたってこと?
       
一方ルイ・ナポレオンはというと、こちらはとんでもない女好きで
人妻からクルティザンヌ(高級娼婦)に至るまで女性の噂が絶えませんでした。
山田勝氏の『ドゥミ・モンデーヌ』によると、この第二帝政時代は
クルティザンヌの商売がもっとも繁盛した時期だそうですけど
その風潮の先導者がルイ・ナポレオンらしいですからね!

再びパリを訪れたウージェーニーが再会した時のルイ・ナポレオンはというと
イギリスからハリエット・ハワードという女性を連れて来て同棲していましたが、
そんなことは関係なくウージェーニーに猛アタックします。

一度はスペインに帰ったウージェニーでしたが
1851年にルイ・ナポレオンがクーデターで皇帝ナポレオン3世として即位すると
翌年再びパリに顔をだします。
これは母親のマヌエラが勧めたかららしいけど、やっぱり下心がないとは…

1853年、皇帝はウージェニーに正式に求婚しやっと結婚にこぎつけました。
しかしこの結婚にはボナパルト家の大半が反対していました。
しかるべき家柄の王女か皇女を娶るべきというのがその理由です。

ウージェーニーは自分が宮廷内で不人気だということを知っていたので
政治にも口を出さず目立たぬように暮らしていたものの
若い頃ルイ・ナポレオンと結婚するはずだったマチルド皇女と、ジェローム、
ルイの叔母ソンナ伯夫人などを筆頭に、人々の誹謗中傷はおさまりませんでした。

その上皇帝は早くも愛妾やクルティザンヌたちと遊びまわり
3ヶ月もするとふたりの間には喧嘩が絶えなくなります。
中でもイタリアの密使カスティリョーネ伯夫人との恋愛沙汰はウージェニーを激怒させます。

カスティリョーネ夫人が去ったあとも益々女性関係が破廉恥になってきた
ナポレオン3世の内政は乱れ始めます。
外交的にも優柔不断な決定を繰り返すうちに数回の暗殺未遂に遭い
からだも病気で衰え始めます。
ウージェニーは次第に政治に関わっていくようになりました。

ウージェニーの権力は日増しに大きくなっていきましたが
彼女の思慮を欠いた政治は不満を招きました。
彼女が犯した最も愚かな罪は、皇帝をたきつけてメキシコの内乱に介入し、
ハプスブルク家のマクシミリアンを皇帝として送りこんだことです。
マクシミリアンは誰の援護も受けないまま内乱で処刑されてしまいました。
これにはナポレオン3世とウージェニーに非難が集中しました。

1870年、何を思ったのか当時破竹の勢いだったプロイセンに宣戦布告したフランスは
忽ち劣勢にたたされますが、ウージェーニーはよれよれの夫を前線に向かわせました。
士気を鼓舞するつもりだったのでしょうが逆効果…皇帝はスダンで降伏しました。

市民が怒りテュイルリー宮を取り巻く中を、ウージェニーはハンカチ2枚と
侍女をひとり連れただけで脱出しイギリスへ向かいました。
後日息子ルイも合流し、休戦後はルイ・ナポレオンも解放されて
3人は異国で小さな宮廷をかたちづくりました。

1873年にルイ・ナポレオンが亡くなり、ウージェニーが皇帝即位の夢をみていた
息子ルイも兵士として参加した南アフリカで死亡しました。
ウージェニーは翌年南アフリカを訪れて、息子の最期の地を見ています。

イギリスで夫と息子のために教会を建てるなどして静かに暮らしていたウージェニーは
1920年、最後に見ておきたいと訪れたスペインで94歳の誕生日を迎えましたが
その直後、風邪が悪化して亡くなりました。
遺体はイギリスへ運ばれ、夫と息子の間に葬られたそうです。

              
                88歳の時のウージェニーです

さして高くはない家柄からのぼりつめた皇后の座だったのに・・・
せめて夫が愛人たちに向けるエネルギーの半分でも政治に費やしてくれたらねぇ

(参考文献 窪田般彌氏『皇妃ウージェニー』 山田勝氏『ドゥミ・モンデーヌ』)

皇妃ウージェニー 白水社


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フランス王ルイ・フィリップ妃 マリー・アマーリエ

2009-04-14 02:04:59 | フランス王妃・王女
亡命につぐ亡命・・・
ルイ・フィリップ妃 マリー・アマーリエ・ド・シシリー


1782~1866/在位 1830~1848

マリー・アマーリエの母マリア・カロリーネはマリー・アントワネットの姉で
20分で退位したマリー・テレーズは従姉妹にあたります。

マリア・カロリーネとマリー・アントワネットは、ルイ・シャルルと彼女を
結婚させるつもりで、小さな頃から「あなたはフランス王妃になるのよ」と
言い聞かせてきました。
フランス革命で縁談はなくなりましたが、後年マリー・アマーリエは
母の言ったとおり(相手は違いますが)フランス王妃になりました。
    
マリー・アマーリエはフランス革命で伯母を失ったあと、自分の国でも反乱を体験し
自身も一時期亡命していました。
反乱がおさまり国に戻ったマリー・アマーリエは
1806年、父の両シチリア王フェルディナンド1世のパレルモの別荘で
亡命中だったオルレアン公ルイ・フィリップと出会いました。

ルイ・フィリップは軍に入隊して前線に行った経験もありましたし
革命後はスイス、北欧、ドイツ、アメリカなどを訪れていました。
箱入り娘として育ってきた24歳のマリア・アマーリエには
ルイ・フィリップが勇敢で頼もしい男性に映ったかもしれません。

出会いから3年後ふたりは結婚し、1814年の王政復古をうけてフランスに戻ります。
1815年に一瞬ナポレオンが返り咲いた時、彼女は子供たちとイギリスに渡り
1817年までは帰国しませんでした。
再びナポレオンが戻ってきたら、また逃げ出さなければなりませんからね。

フランスに戻った後11年間ヌイイで暮らし、1828年にパリに移ります。
とはいっても、これといって収入のないオルレアン公夫妻は
8人の子を抱えて、なんとかやりくりしなければなりませんでした。
マリー・アマーリエのように高貴な対面を保とうとする者には大変なことです。

7月革命でシャルル10世が退位し、議会の決定でルイ・フィリップが即位にしてからも
お金の問題はつきまといます。
彼らはパレ・ロワイヤルで暮らしていましたが、往年の輝きを取り戻すために
大枚22万フランを費やしたということです。

子供たちの世話と教育におわれていたマリー・アマーリエは
特に政治的な行動をとったわけではありませんでした。
ただ彼女自身は超君主主義者で保守的だったので
ルイ・フィリップがブルジョワジーや貴族に充分報いていないのではないか?と
案ずる人々のよりどころになっていたのかもしれません。

だからかどうかは分かりませんが、ルイ・フィリップは民主的だった政治姿勢を
途中から貴族や金持ちよりに変えています。
これがひびいて1848年に2月革命がおこり、王は退位しました。
ルイ・フィリップはルイ16世一家のようになることを怖れ、息子フィリップの
王位継承権を放棄して、即刻イギリスに渡りました。

ルイ・フィリップは亡命後2年で亡くなりましたが、彼女はイギリスを離れず
ヴィクトリア女王の温情を受け、毎日ミサに出席したりして過ごしていました。
1866年、マリー・アマーリエが亡くなると、彼女の強い希望で
フランスから持って来たドレスを身につけて葬られました。

              
               ・・・こんなドレスですかね?

なんだか忙しい人生でしたね。
国をおわれるというのは1度でもショッキングなことでしょうに
こんなに何度も逃げ出さなければならなかったなんて・・・
ご苦労様でした、と言ってあげたいですね。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)

フランス史10講 岩波書店


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フランス王ルイ19世妃 マリー・テレーズ

2009-04-14 01:53:16 | フランス王妃・王女
たぶんギネス! 在位期間最短の王妃
ルイ19世妃 マリー・テレーズ・ド・フランス


1778~1851/在位 1830(20分間)

マリー・テレーズはルイ16世の長女で「え!生きてたの?」と
言われてしまいがちな人物ですが、どっこい生き延びていました。

       

不能と言われたルイ16世の妃マリー・アントワネットが身ごもった時
フランスの人々は熱狂しましたが、王女が生まれたと聞いてがっかりします。
けれど母マリー・アントワネットは「貴方は人々が望んでいたものではないけれど
だからこそ、私たちは貴方を愛していくでしょう」と歓迎の言葉を贈りました。

フランス革命が起こった時、宮廷の中のマリー・テレーズは特に気に病むこともなく
むしろ弟ルイ・フィリップの死にショックを受けていました。

もともとフランス革命は、独立戦争でアメリカを支持して大金を投じたことから
おこった政治的な問題で、王制にまで手が及ぶとは考えられていなっかたのです。
けれど反政府の気運は高まる一方で、矛先は王家に向かいました。
バスティーユ陥落からマリー・テレーズの生活は一変します。

まずはテュイルリー宮殿に移り、国外への逃亡などが画策されたものの上手くいかず
一家はタンプル塔へ移されます。
両親と引き離され、弟のルイ・シャルルと叔母のエリザベスの3人で監禁されましたが
王と王妃の処刑に続いてエリザベスが処刑され、ルイ・シャルルも革命派に
連れ去られてしまいました。
タンプル塔に閉じ込められた王家の中で、革命後まで生き残ったのは彼女だけです。

父王ルイ16世が亡くなったこと以外何も聞かされていなかった彼女の元を
翌年ロベスピエールが訪れます。
会話の内容は記されていませんが、その後マリー・テレーズは
いとこのフランツ2世が治める神聖ローマ帝国のウィーンに送られました。
その後は叔父プロヴァンス伯ルイ(後の18世)がロシア皇帝パウル2世の客として
滞在していたイェルガヴァに移りました。

              
              フランスを出た時のマリー・テレーズ

ルイ17世の死が伝えられて即位したルイ18世には嫡子がいませんでした。
そこで今後のブルボン家の王位継承を危惧した亡命王は
甥のルイ・アントワーヌとマリー・テレーズの縁談を考えつきます。
アングレーム公ルイ・アントワーヌは人見知りで口べたで若々しさがない青年で
父親のアルトワ伯シャルル(後の10世)は、この縁談に反対します。
マリー・テレーズも革命後はめったに笑わない神経質な少女になったそうで
なんか・・・暗~い夫婦になりそうですよね。
ふたりは1799年にイェルガヴァで結婚しました。

王一家はその後イギリスに移り、1815年には亡命生活に終わりを告げました。
マリー・テレーズは義父に倣ってルイ18世の政治には無関心で
ファーストレディの変わりを務めることもありませんでした。

1924年には義父がシャルル10世に即位し、マリー・テレーズは王太子妃になります。
しかし強引な君主制への逆行政治を行ったシャルル10世への不満は高まり
1930年、7月革命を受けて王は退位を決意します。
本来であれば息子ルイ・アントワーヌに王位を譲るところですが
シャルルは息子のあまりの不人気ぶりに、孫のアルトワ伯アンリに
王位を継承することにしました。
(結局アンリは議会で認められず
 王にはオルレアン家のルイ・フィリップがついたのですが…)

そこでルイ19世が即位し20分後に退位するという、まどろっこしい手続きがとられ
マリー・テレーズの王妃の座も20分のみという、驚きの短さで幕を閉じました。
彼女の胸中はいかに・・・いったいどれだけ不人気な夫だったのでしょうね?

その後は義父や夫とともにエジンバラ、プラハ、ゴリツィアを転々とし
夫が1844年に亡くなるとウィーン郊外の城に落ち着きました。
議会で即位を承認されなかったシャンボール伯(旧アルトワ伯)アンリ兄妹も加わり
読書や縫い物、散策などをしながら静かに過ごしたようです。
きっと「なんでオルレアン家なわけ?」なんて愚痴っていたのでしょうね。

1851年に肺炎で亡くなり、義父と夫が眠るゴリツィアの修道院に葬られました。
最後にルイ16世をはじめとする王家を愛してくれた人々に感謝の意を遺しています。

王の娘として生まれ、本当なら他国の王妃か一流貴族の妃として宮廷で華やかな
一生を送るはずだった少女なのに、家族は皆悲惨な死を迎えて
人生の大半を(貧しくはなかったでしょうが)亡命者として過ごすとは・・・
不運だったとしか言えません。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版』)

フランス史10講 岩波書店


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フランス王シャルル10世妃 マリー・テレーズ

2009-04-12 22:58:50 | フランス王妃・王女
なぜか嫌われ者
シャルル10世妃 マリー・テレーズ・ド・サヴォワ


1756~1805/在位せず

マリー・テレーズはルイ18世王妃マリー・ジョゼフィーヌの妹で
兄のカルロ・エマヌエーレも夫の妹のマリア・クロチルデと結婚しました。
ブルボン家とサヴォワ家の間にはいったい何があったというのでしょうね?

      

シャルルはとてもハンサムで機智に富んでいたらしく
若い頃から女性には苦労しなかったようです。
“ 女たらし ” と広く知れ渡っていたということで
それでなくても女性に目がないフランス王家の男性に在って
さらに “ 女たらし ” といわれるとはただ者ではありませんね。

中でも義理の姉マリー・アントワネットにはご執心だったらしく
彼女の行く所には常にシャルルがつきまとい、また王妃もシャルルと同席することを
望んでいたようで、宮廷では噂の的になっていたみたいです。

そんなシャルルはアルトワ伯時代の16歳の時にマリー・テレーズと結婚しましたが
本当はコンデ公女(たぶんルイーズ・アデライード)と結婚するつもりでした。
親のいいつけなんですかね?  3人セットで結婚しなければいけなかったのかしら?
結局コンデ公女とは結婚できませんでした。

マリー・テレーズは夫とマリー・アントワネットの噂を知っていたでしょうね。
でも義理の姉だし王妃だし、どちらが偉いかと言われればマリー・アントワネットです。
だから王妃のことを悪く言ったり衝突したりするのは避けていたのに
なぜか宮廷で最も嫌われ者になってしまいました。

たぶん取り巻きが王妃のご機嫌をとるために、マリー・テレーズのことを一緒になって
嘲笑ったりいじめたりしたんじゃないかしら?
あるいは衝突を避けたことが、王妃を無視しているみたいに見えたのかもしれません。
「生意気じゃなくて?」なんて言われたりして…

シャルルとマリー・テレーズの間には1男2女が生まれました。
その子供たちがブルボン王家の最後の直系になります。

フランス革命が起こるとシャルル一家はオーストリアのグラーツに亡命します。
マリー・テレーズは帰国することなく1805年に亡くなり、彼の地に埋葬されました。

シャルルは兄ルイ18世とはあまり仲が良くなかったのか、政治的な思想が違ったのか
帰国後も兄王に協力しようとしませんでした。

シャルルは1824年に即位すると絶対王政の強化にのりだします。
貴族の権利を取り戻して優遇し選挙権を制限するなどして
フランスは革命前の状態に逆戻りです。

けれども一度革命を起こした国民は黙っちゃいません。
1830年に7月革命がおこり、シャルルは退位して再び亡命生活に入ります。
イギリスを経てチェコに落ち着いたシャルルは、1835年にイタリアで亡くなりました。
晩年のシャルルの面倒をみていたのは、長男ルイ・アントワーヌの妃で
ルイ16世の王女マリー・テレーズでした。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス皇帝ナポレオン1世妃 マリー・ルイーズ

2009-04-10 01:40:29 | フランス王妃・王女
“ 悪魔 ”に嫁がされた貴婦人
ナポレオン1世妃 マリー・ルイーズ・ドートリッシュ


1791~1847/在位 1810~1815

皇帝になったナポレオンは、自分の血を引く嫡子を得ようとして
ジョセフィーヌと離婚しましたが、同時に自分の家柄があまり良くないので
皇帝の名に恥じない高貴な家から妃を迎えて子供たちに継がせようと考えました。

最初はロシア皇帝アレクサンドル1世の妹アンナに求婚しましたが断られたため
ハプスブルク家のマリー・ルイーズに結婚を申し込みました。

        

ハプスブルク家の皇女ともあろうものがあんな成り上がりに嫁ぐなんて!という意見は
多かったのですが、マリー・ルイーズの父神聖ローマ皇帝フランツ2世は
気が弱くて争いごとを好まず、なんの抵抗もせずに彼女を嫁がせました。

しかしマリー・ルイーズの大叔母にあたるマリー・アントワネットはフランスで
処刑されていますし、ナポレオンのせいでブルボン王家はフランスに帰れずにいます。
ハプスブルク家からみれば彼は悪魔のような男で、マリー・ルイーズも散々吹き込まれて
嫁ぐ前はかなりナーバスになっていたようです。

1810年に結婚したふたりでしたが、ナポレオンは高貴なマリー・ルイーズに
かなり気をつかっていたようで、ことあるごとに「ジョゼフィーヌより好きだ」と
強調することを怠りませんでした。
マリー・ルイーズも「悪魔」と聞かされていたわりにはまめまめしく気を配るナポレオンに
故国から抱えてきた嫌悪感は消えたみたいです。
結婚の翌年には待望の皇太子が生まれました。

1813年、ナポレオンはモスクワ侵攻に失敗します。
その後も欧州列強がナポレオンを包囲し、プロイセンをはじめとする大連合軍に敗れて
エルバ島に追放されることになりました。

マリー・ルイーズは夫に同行することなく、宰相メッテルニヒが選んだ
色男ナイペルク伯にエスコートされて、領地を与えられたパルマに向かいました。
これはナポレオン派が皇后と皇太子を担いで蜂起することを防ぐための措置でしたが
彼女はそんなことには頓着せず、ナイペルク伯との愛に溺れていきました。

ナポレオンは1815年、エルバ島を脱出して一時皇帝に返り咲きました。
パリに入った彼は、マリー・ルイーズを呼び寄せますが
彼女は「二度とあの男に会いたくない」と固辞したそうです。

娘と息子が生まれた後、こっそりナイペルク伯と結婚してフランツ2世を激怒させますが
無理矢理ナポレオンに嫁がせた負い目もあって許されました。
1829年にナイペルク伯が亡くなると、メッテルニヒはボンベル伯を送り込みます。
またまた彼に夢中になったマリー・ルイーズは3度目の結婚をします。

勝手にやって来て居座られたパルマの人々は、彼女を「男好き」などと蔑んだようですが
そばに誰かいないとダメなタイプだったんじゃないかしら?
優しくされると好きになってしまうという少女恋愛体質のようにみえます。
あんまり深く考えるたちではなかったと言われていますし。

マリー・ルイーズはパルマの気候は気に入ったらしく
オーストリアにいる息子のナポレオン2世にもほとんど会いに行きませんでしたが
ドレスや芸術に関してはフランス贔屓で何もかもパリから取り寄せていたそうです。
結局パルマの地を離れることもなく1847年に肋膜炎で亡くなりました。

ちなみに、ナポレオン2世は父ナポレオンによってローマ王に即位させられましたが
1814年にマリー・ルイーズとオーストリアに避難した時から
国外に出ることが許されない身になりました。
これはマリー・ルイーズ同様、ナポレオンの残党に担がれないためでしたが
パルマに行ったきりでほとんど会いに来ない母を待ちこがれながら
1832年に21歳で病死しました。
さすがのマリー・ルイーズも(ギリギリでしたが)枕元にかけつけて
最期を看取ったということです。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
      川島ルミ子氏『ナポレオンが選んだ3人の女』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家の女たち 講談社


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フランス皇帝ナポレオン1世妃 ジョゼフィーヌ

2009-04-10 01:37:45 | フランス王妃・王女
子供も玉の輿の道具
ナポレオン1世妃 ジョセフィーヌ・ド・ボーアルネー


1763~1815/在位 1804~1810

ナポレオン&ジョゼフィーヌといえば有名なカップルですね。
けれどふたりは最後まで添い遂げたわけでなく、オシドリ夫婦でもありませんでした。

ナポレオンの生い立ちは長くなるので省くとして…

ジョゼフィーヌは西インド諸島のマルティニーク生まれです。
ボーアルネーというのは最初に結婚した夫の姓で
父親はマルティニークの一領主ジョセフ・ガスパール・タシャーです。

たぶん後付けの理由だと思いますが、南の島で自由な少女時代を送ったので
奔放な男性関係を繰りひろげるようになったということです。

彼女の叔母ルノーダンが愛人を追ってパリに戻ると、16歳のジョゼフィーヌを呼び寄せ
愛人の息子ボーアルネー子爵と結婚させました。
夫は不在がちで、彼女はこの頃から浮気を始めます。
浮気は夫に知られてジョゼフィーヌは離婚を言い渡されますが、1994年、離婚前に
ボーアルネー子爵が属するジロンド党がジャコバン党に破れ、子爵は処刑されました。
ジョゼフィーヌも一時投獄されましたが、ジャコバン党が瓦解したため解放されました。
         
パリの反革命派を鎮圧したナポレオンが、市民の武器を没収していた時の話しです。
健気そうな少年がひとり、彼に父の形見を返してほしいと言ってきました。
ナポレオンは少年の気持ちに感激し銃を返してあげます。 すると…ジョゼフィーヌ登場!
なんでも息子のお願いに応えてくれたお礼を言いに来たということなのですが
ナポレオンはひと目見るなり彼女に惹かれてしまいます。
これは作戦なんですかねぇ~?

ナポレオンの猛烈なアタックが功を奏して、1796年ふたりは結婚します。
ジョゼフィーヌはナポレオンより6歳年上の33歳でしたが、29歳と偽っていました。

それ以前からジョゼフィーヌの情人だったナポレオンの司令官バラスは
彼女との関係を続けたくて、結婚式の2日後にナポレオンをイタリアに遠征させました。
ジョゼフィーヌはパリに残ってバラスをはじめとする色男たちと遊び歩き、ナポレオンに
しつこく呼ばれて一度はイタリアへ行ったものの、エジプトやシリアで転戦する夫を尻目に
若い士官と浮気をして散財を繰り返していました。

もともとジョゼフィーヌが嫌いだったナポレオンの家族は、ジョゼフィーヌの行状を
ナポレオンに逐一報告していましたが、彼は信じていませんでした。
けれども国からやってくる士官たちまでが彼女の不貞のことを言いだしたため
ナポレオンは離婚を決意します。

名声と地位を得てパリに戻って来たナポレオンは、ジョゼフィーヌを避けていましたが
ジョゼフィーヌはいまや時の人になった夫を手放す気はありません。
そこでナポレオンが可愛がっていた連れ子のウージェーヌとオルタンスが活躍します。
ふたりはナポレオンの部屋の前で一晩中泣き続けました。
ナポレオンはふたりの涙に負けてドアを開けますが、そこにはちゃっかりジョゼフィーヌも
待機していて、結局よりを戻すことになります。

ナポレオンはクーデターをおこして軍事独裁を始め、執政官になり
1804年、ついに皇帝になります。
ナポレオンは地位が上がるにつれ愛人もつくりましたが、ふたりは平穏な生活を送っていて
ジョゼフィーヌも皇帝妃として得意の絶頂にいました。
(ちなみに、皇帝の妃なので、王妃ではなく皇后になります)
けれど、皇帝の椅子にすわったことでナポレオンは世継ぎが必要になり
ジョゼフィーヌにはそれが望めないとなると離婚することにします。

うすうすナポレオンの考えに気付いたジョゼフィーヌは、前もってナポレオンの弟ルイに
嫁がせていた娘のオルタンスにとりなしてもらおうともしますが功を奏しませんでした。

1809年、ナポレオンはジョゼフィーヌとの離婚を宣言しましたが
皇后の称号は剥奪されず、屋敷や年金などできるだけのものが与えられました。

1814年ジョゼフィーヌは肺炎で亡くなります。
ナポレオンがエルバ島に追放されてから1週間後のことで
最後の言葉は「ナポレオン」でした。

(参考文献 三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』
      川島ルミ子氏『ナポレオンが選んだ3人の女』 Wikipedia英語版)

ナポレオンが選んだ3人の女 講談社


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フランス王ルイ18世妃 マリー・ジョゼフィーヌ

2009-04-08 22:36:57 | フランス王妃・王女
異国の空の下の王妃
ルイ18世妃 マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワ


1753~1810/在位 1795~1810

フランス王はルイ16世までと思われがちですが、ブルボン家をはじめとする貴族たちが
イギリスで亡命政府を樹立しまして、革命後も何代か王はいました。

ルイ18世はルイ16世の弟で、革命後はルイ・シャルルを王とする反革命派で
打倒共和制と王政復古を目ざしていました…ルイ17世を救出せんか!と言いたいわ。
プロヴァンス公時代の1771年にマリー・ジョゼフィーヌと結婚していました。

マリー・ジョゼフィーヌはサルディーニャ王女ですが
少女時代のエピソードが特にありません…夫が王になってから脚光を浴びたみたいです。

マリー・アントワネットに最後まで忠誠を尽くしたために惨殺された
ランバル公妃マリー・ルイーズのまたいとこにあたります。
また、妹のマリー・テレーズは、ルイ18世の弟シャルル(後の10世)に嫁ぎました。

     
さてさて、亡命中の夫を支えていかなければいけない妃でありながら
イギリスに落ち着いたふたりの間には激しい喧嘩が絶えませんでした。
あくまでも噂ですが、マリー・ジョゼフィーヌは侍女のひとりとレズビアンの関係にあり
それが不和の最大の原因だったということです。

1795年にルイ17世死亡の報せが入り、ルイは18世として王の宣言をしますが
フランスに帰れるわけではありません。
同じ年、フランス革命後発足した共和制がナポレオンによって倒されます。
ナポレオンは執政をはじめ、1804年には皇帝になってしまいました。

この間、ヨーロッパの各王国は総力をあげてブルボン王家を援護しました。
姻戚関係や長年のおつき合いなどもありましょうが、それよりなにより自分の国で
革命が起こって新体制が誕生するのを怖れたためだと思われます。
すでにその兆しは各国で見え始めていました。

1814年、イギリス、オーストリアにロシアやプロイセンまで加えた
大連合に敗れたナポレオンはエルバ島に流され、ウィーン会議が開かれました。
ブルボン家の王政復古が成り、ルイ18世は晴れてフランスに帰国しましたが
側にマリー・ジョゼフィーヌの姿はありませんでした。

マリー・ジョゼフィーヌとルイ18世は王を宣言した後から別居生活を続け
彼女は1810年にフランスを再び見ることなく亡くなっていたのです。
遺体は遺言によって故郷のサルディーニャに葬られました。

国の一大事に夫婦喧嘩に終始していたとは呆れますね。
本当なら各国王をもてなして協力を得るように務めなければならない立場なのに。
よっぽど夫が嫌いだったとみえる…

ルイ18世は、帰国後平民などの意見を取り入れた政治体制を試みましたがうまくいかず
革命の元凶ともいえる絶対王政を復活させてしまいました。
この時舵取りを上手くやっていれば、フランスは今でも王国だったかもしれません。
フランスの方々にそれがありがたいことかどうかは分かりませんが
フランス宮廷って華やかで素敵そうじゃない?
すごくスキャンダラスな王室かもしれないけど…

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)
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フランス王ルイ16世妃 マリー・アントワネット

2009-04-05 10:08:30 | フランス王妃・王女
最悪のとばっちりをうけた王妃
ルイ16世妃 マリー・アントワネット・ドートリッシュ


1755~1793/在位 1774~1792

なんといっても『ヴェルサイユのばら』がありますからね。
あまりにも有名なので、いちいちエピソードを言うまでもないと思います。
家系図に関係ある生い立ちなどをさっくり書いてみます。

マリー・アントワネットは、ご存知のとおり
女帝マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の皇女でございます。

         

当時、台頭目覚ましいプロイセンのフリードリヒ大王に国土を脅かされていた
マリア・テレジアはロシアの女帝エリザヴェータ
ルイ15世愛妾ポンパドゥール夫人の協力を得てプロイセンに対抗する勢力を作り上げました。
俗に “ 3枚のペチコート作戦 ” といわれています。

けれどフランスとオーストリアは長年の宿敵です。
より強い結びつきを確保するために王太子ルイと
マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットの縁談がとりまとめられました。

            
             婚約時代のマリー・アントワネット

ルイ(後の16世)は、ルイ15世の孫にあたります。
父のルイが早世したため王太子になりました。

1770年、14歳になったマリー・アントワネットとルイは華々しく結婚しましたが
その後はご存知のとおり、王家の運命とともに破滅への道を進んでいきます。

ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人との不毛な争い、兵隊遊びに夢中で彼女を顧みない夫
連日連夜の仮面舞踏会、奇妙奇天烈なヘアスタイルと一度しか着ないドレス
市民が食うや食わずだというのに音楽だ、芸術だ、バレエだと娯楽にうつつをぬかす
スウェーデン貴族フェルセンとの恋、貧しい人の怒りをかったというプチ・トリアノン
彼女の物欲が招いたとされる首飾り事件… 池田理代子先生の絵が浮かんできますわ

そして1789年「バスティーユに白旗がっ!」から始まるフランス革命によって
国王ルイ16世一家は捕えられ、王に続いてマリー・アントワネットも
断頭台で38歳の命を閉じました。
            
ここで不肖わたくしは、マリー・アントワネットは当時の王侯貴族の妃として
なに一つ間違ったことはしていない! と言わせていただきたい。

そりゃあ少し愚かだったかもしれませんが、愚かな妃はなにも彼女だけじゃなし
国を傾けるほど乱費した王妃なんかゴロゴロいます。
プチ・トリアノンなんてかわいいもんじゃないですか?
歴代の王が愛妾に建てた城にくらべたら… シュノンソー城を見てごらん!
ファッションも(笑っちゃうけど )他の王妃だってすごいでしょ?
からだ中宝石と絹で、キラキラ、ギラギラ、ピカピカです。

ちなみに「パンが食べられないないならお菓子を食べればいいのに…云々」は
マリー・アントワネットではなく、ルイ15世の王女たちが言った言葉です。
どこの王女たちだってそういうことを言ってもおかしくなかったんだと思います。
そういうふうに育てられてきたのですから。

だいたい革命の種はルイ14世が絶対王政を確立し、ありとあらゆる贅沢を
享受していた頃からくすぶっていたんじゃないでしょうか?
ルイ15世の時には相当の高ぶりをみせていたと思われますが王は対処しませんでした。
ルイ16世は、市民の意見を尊重しようと努力していたように見受けられます。

王とマリー・アントワネットは完全にとばっちりをうけたのだと思います。
たとえマリー・アントワネットがドレスや宝石を我慢し、舞踏会を開かなくても
革命は避けられなかったでしょう。
革命派は体制自体が気に入らないのですから、王なんか誰だって関係ないですよ。

結局、ルイ16世が試みた、平民を政治に加えようという政策に反対した
保守派貴族の一部は、革命になるとフランスを逃げ出して
亡命政府なるものをつくったりします。

その時反革命派が旗印に掲げたのが、王子ルイ・シャルルでした。
新国王ルイ17世とはいえ革命軍に捕えられていた少年は、食べ物も充分与えられず
暗く狭い塔の一室に閉じ込められたまま10歳で世を去りました。

              
                 ルイ17世です

将来火種になることを怖れて殺された王子や王女は数えきれないほどいます。
王家に生まれた者の宿命とはいえ、子供たちには罪はないのに…哀れですね。

(参考文献 三浦一郎氏『世界史の中の女性たち』
      江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家の女たち 講談社


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講談社新書、私は昔の表紙の方が好きでしたけれどもね…
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フランス王ルイ15世妃 マリー

2009-04-02 01:14:18 | フランス王妃・王女
名高い愛妾たちの影で・・・
ルイ15世妃 マリー・レクザンスカ


1703~1768/在位 1725~1768

マリーがルイ15世の妃に選ばれたのは「国際紛争に巻き込まれない相手を」という
ルイの要望でブルボン公ルイ・アンリが探しだしたからです。
またマリーの家系はヨーロッパ貴族の中では多産で名高かったそうです。

マリーの父はポーランド王になりましたが、代々王の家系だったわけではなく
スウェーデン王の後押しで傀儡王として即位し、5年で退位しました。

その後はアルザスに亡命し、ルイ15世摂政のオルレアン公フィリプ2世の
保護を受けて暮らしていました。

       

ルイ15世は11歳の時、従姉妹にあたるスペイン王女マリー・アンヌと婚約していて
彼女は3歳でフランスに渡り教育されていたのですが
ルイの成年と同時に婚約は破棄されました。
マリー・アンヌはスペインへ帰されます。

かくしてオルレアン公がマリーに王との縁談を申し入れし、1725年に結婚しました。
マリーはルイの7歳年上の22歳でした。

結婚生活は順調で、マリーは評判どおり次々と子供を生みました。
しかし8年目、うーん 危険な感じですね… ルイ15世は浮気を始めます。
なんでも、マリーは結婚当時「ヨーロッパで最も退屈なふたりの貴婦人のうちのひとり」と
言われていたらしく(もうひとりはマリーの母)、倦怠期も重なって
ルイ15世も少し退屈してきたのかもしれません。

1744年、ジャンヌ・アントワネット、すなわち後のポンパドゥール夫人が登場します。
もう王の心も宮廷も彼女のものです。
その上政治欲旺盛なポンパドゥール夫人は王をさしおいて政治の表舞台で力を発揮し
王はやることなし、1752年にはハレム “ 鹿の園 ” までつくってもらってご満悦…
愛妾たちに溺れ始めます。

見せかけなのかあきらめが早いのか、マリーは王の浮気をよそに趣味に没頭します。
熱心なローマン・カトリックの信者だったマリーは、週1回ポーランド語による
賛美歌コンサートを開催し、ポーランドスタイルのガウンを好んで着ていました。
このガウンは “ ローブ・ア・ラ・ポロネーゼ ” として流行したそうです。
またモーツァルトを何度も招いたり、ヴォルテールと文通をしたりしていました。

後年は王太子の嫁と嫁姑問題などもありましたが、概ね家族に愛されていたマリーは
ルイ15世に先立つこと6年前の1768年に亡くなりました。

既にポンパドゥール夫人は亡くなっていましたが、1769年にはデュ・バリー夫人が登場して
宮廷内の女性陣と対立し、ヴェルサイユはワヤクチャになります。
女性陣の筆頭に立たされたのは若き王太子妃マリー・アントワネットでしたが
マリーが生きていたら、本人の意思に関係なく巻き込まれていたでしょうね。
そんな目に遭う前に亡くなったのがせめてもの救いでしょうか?

(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版)

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