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フランス王シャルル10世妃 マリー・テレーズ

2009-04-12 22:58:50 | フランス王妃・王女
なぜか嫌われ者
シャルル10世妃 マリー・テレーズ・ド・サヴォワ


1756~1805/在位せず

マリー・テレーズはルイ18世王妃マリー・ジョゼフィーヌの妹で
兄のカルロ・エマヌエーレも夫の妹のマリア・クロチルデと結婚しました。
ブルボン家とサヴォワ家の間にはいったい何があったというのでしょうね?

      

シャルルはとてもハンサムで機智に富んでいたらしく
若い頃から女性には苦労しなかったようです。
“ 女たらし ” と広く知れ渡っていたということで
それでなくても女性に目がないフランス王家の男性に在って
さらに “ 女たらし ” といわれるとはただ者ではありませんね。

中でも義理の姉マリー・アントワネットにはご執心だったらしく
彼女の行く所には常にシャルルがつきまとい、また王妃もシャルルと同席することを
望んでいたようで、宮廷では噂の的になっていたみたいです。

そんなシャルルはアルトワ伯時代の16歳の時にマリー・テレーズと結婚しましたが
本当はコンデ公女(たぶんルイーズ・アデライード)と結婚するつもりでした。
親のいいつけなんですかね?  3人セットで結婚しなければいけなかったのかしら?
結局コンデ公女とは結婚できませんでした。

マリー・テレーズは夫とマリー・アントワネットの噂を知っていたでしょうね。
でも義理の姉だし王妃だし、どちらが偉いかと言われればマリー・アントワネットです。
だから王妃のことを悪く言ったり衝突したりするのは避けていたのに
なぜか宮廷で最も嫌われ者になってしまいました。

たぶん取り巻きが王妃のご機嫌をとるために、マリー・テレーズのことを一緒になって
嘲笑ったりいじめたりしたんじゃないかしら?
あるいは衝突を避けたことが、王妃を無視しているみたいに見えたのかもしれません。
「生意気じゃなくて?」なんて言われたりして…

シャルルとマリー・テレーズの間には1男2女が生まれました。
その子供たちがブルボン王家の最後の直系になります。

フランス革命が起こるとシャルル一家はオーストリアのグラーツに亡命します。
マリー・テレーズは帰国することなく1805年に亡くなり、彼の地に埋葬されました。

シャルルは兄ルイ18世とはあまり仲が良くなかったのか、政治的な思想が違ったのか
帰国後も兄王に協力しようとしませんでした。

シャルルは1824年に即位すると絶対王政の強化にのりだします。
貴族の権利を取り戻して優遇し選挙権を制限するなどして
フランスは革命前の状態に逆戻りです。

けれども一度革命を起こした国民は黙っちゃいません。
1830年に7月革命がおこり、シャルルは退位して再び亡命生活に入ります。
イギリスを経てチェコに落ち着いたシャルルは、1835年にイタリアで亡くなりました。
晩年のシャルルの面倒をみていたのは、長男ルイ・アントワーヌの妃で
ルイ16世の王女マリー・テレーズでした。

(参考文献 柴田三千雄氏『フランス史10講』 Wikipedia英語版)

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