まりっぺのお気楽読書

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フランス王ルイ15世妃 マリー

2009-04-02 01:14:18 | フランス王妃・王女
名高い愛妾たちの影で・・・
ルイ15世妃 マリー・レクザンスカ


1703~1768/在位 1725~1768

マリーがルイ15世の妃に選ばれたのは「国際紛争に巻き込まれない相手を」という
ルイの要望でブルボン公ルイ・アンリが探しだしたからです。
またマリーの家系はヨーロッパ貴族の中では多産で名高かったそうです。

マリーの父はポーランド王になりましたが、代々王の家系だったわけではなく
スウェーデン王の後押しで傀儡王として即位し、5年で退位しました。

その後はアルザスに亡命し、ルイ15世摂政のオルレアン公フィリプ2世の
保護を受けて暮らしていました。

       

ルイ15世は11歳の時、従姉妹にあたるスペイン王女マリー・アンヌと婚約していて
彼女は3歳でフランスに渡り教育されていたのですが
ルイの成年と同時に婚約は破棄されました。
マリー・アンヌはスペインへ帰されます。

かくしてオルレアン公がマリーに王との縁談を申し入れし、1725年に結婚しました。
マリーはルイの7歳年上の22歳でした。

結婚生活は順調で、マリーは評判どおり次々と子供を生みました。
しかし8年目、うーん 危険な感じですね… ルイ15世は浮気を始めます。
なんでも、マリーは結婚当時「ヨーロッパで最も退屈なふたりの貴婦人のうちのひとり」と
言われていたらしく(もうひとりはマリーの母)、倦怠期も重なって
ルイ15世も少し退屈してきたのかもしれません。

1744年、ジャンヌ・アントワネット、すなわち後のポンパドゥール夫人が登場します。
もう王の心も宮廷も彼女のものです。
その上政治欲旺盛なポンパドゥール夫人は王をさしおいて政治の表舞台で力を発揮し
王はやることなし、1752年にはハレム “ 鹿の園 ” までつくってもらってご満悦…
愛妾たちに溺れ始めます。

見せかけなのかあきらめが早いのか、マリーは王の浮気をよそに趣味に没頭します。
熱心なローマン・カトリックの信者だったマリーは、週1回ポーランド語による
賛美歌コンサートを開催し、ポーランドスタイルのガウンを好んで着ていました。
このガウンは “ ローブ・ア・ラ・ポロネーゼ ” として流行したそうです。
またモーツァルトを何度も招いたり、ヴォルテールと文通をしたりしていました。

後年は王太子の嫁と嫁姑問題などもありましたが、概ね家族に愛されていたマリーは
ルイ15世に先立つこと6年前の1768年に亡くなりました。

既にポンパドゥール夫人は亡くなっていましたが、1769年にはデュ・バリー夫人が登場して
宮廷内の女性陣と対立し、ヴェルサイユはワヤクチャになります。
女性陣の筆頭に立たされたのは若き王太子妃マリー・アントワネットでしたが
マリーが生きていたら、本人の意思に関係なく巻き込まれていたでしょうね。
そんな目に遭う前に亡くなったのがせめてもの救いでしょうか?

(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版)

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嫁ぎ先を間違えた?フランス王妃 (メリエンダ)
2018-10-25 09:35:57
マリー・レクザンスカ、ルイ15世の正妻、王妃
ポーランド王女とはいえ、由緒正しき王家の出自とは言い難く、彼女がフランス王妃に選ばれたのは、外交上、問題なくて、多産の家系であるからで、彼女自身は、美貌でも、才気煥発でもなかったらしいですね。真面目で、信心深い性格だったらしく、実父のポーランド王は、娘の事を『私は、この世で最も退屈で、つまらない女性を二人知っている、一人は、我が妻、もう一人は、我が娘だ!』なんて扱き下ろされる程‥実父なのに、娘をそんな風に貶すなんて‥
マリー・レクザンスカ王妃は、先代、マリー・テレーズ王妃に並ぶ程に目立たない王妃だと思います。お二方とも、強烈過ぎる寵姫のせいかはたまたもって生まれた大人しい性格のせいか‥
ですが、マリー・レクザンスカ王妃は多産家系の評判通り、ほぼ毎年出産をし、多くの子供達をもうけ、立派に王妃の勤めを果たしてましたが、年がら年中、王と床を共にすれば→妊娠→出産、を繰り返し、こんな地味な王妃は、華やかなフランス宮廷に相応しくない、と貶していた宮廷人達は、“王妃様は、宮廷に出ることなく、ベットに入り浸ってお勤めに精を出していらっしゃる!” なんて物笑いになっていたらしいですね。王妃は毎年ごとの度重なる妊娠→出産に体を壊し始め、王に、床を共にする事を拒絶し、王は寵姫を持つようになり、王妃は、趣味の信仰に没頭するようになったらしいですね。
こんな信心深く、真面目な女性が、なぜ華やかで色香漂うヴェルサイユ宮廷に王妃として嫁いだのでしょうか?彼女のような方には、例えば、真面目なカトリックの王国(スペインやポルトガル?)に嫁げば、“信仰心あつい、敬虔な女性”と称えられていたのではないでしょうか?
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