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フランス皇帝ナポレオン1世妃 マリー・ルイーズ

2009-04-10 01:40:29 | フランス王妃・王女
“ 悪魔 ”に嫁がされた貴婦人
ナポレオン1世妃 マリー・ルイーズ・ドートリッシュ


1791~1847/在位 1810~1815

皇帝になったナポレオンは、自分の血を引く嫡子を得ようとして
ジョセフィーヌと離婚しましたが、同時に自分の家柄があまり良くないので
皇帝の名に恥じない高貴な家から妃を迎えて子供たちに継がせようと考えました。

最初はロシア皇帝アレクサンドル1世の妹アンナに求婚しましたが断られたため
ハプスブルク家のマリー・ルイーズに結婚を申し込みました。

        

ハプスブルク家の皇女ともあろうものがあんな成り上がりに嫁ぐなんて!という意見は
多かったのですが、マリー・ルイーズの父神聖ローマ皇帝フランツ2世は
気が弱くて争いごとを好まず、なんの抵抗もせずに彼女を嫁がせました。

しかしマリー・ルイーズの大叔母にあたるマリー・アントワネットはフランスで
処刑されていますし、ナポレオンのせいでブルボン王家はフランスに帰れずにいます。
ハプスブルク家からみれば彼は悪魔のような男で、マリー・ルイーズも散々吹き込まれて
嫁ぐ前はかなりナーバスになっていたようです。

1810年に結婚したふたりでしたが、ナポレオンは高貴なマリー・ルイーズに
かなり気をつかっていたようで、ことあるごとに「ジョゼフィーヌより好きだ」と
強調することを怠りませんでした。
マリー・ルイーズも「悪魔」と聞かされていたわりにはまめまめしく気を配るナポレオンに
故国から抱えてきた嫌悪感は消えたみたいです。
結婚の翌年には待望の皇太子が生まれました。

1813年、ナポレオンはモスクワ侵攻に失敗します。
その後も欧州列強がナポレオンを包囲し、プロイセンをはじめとする大連合軍に敗れて
エルバ島に追放されることになりました。

マリー・ルイーズは夫に同行することなく、宰相メッテルニヒが選んだ
色男ナイペルク伯にエスコートされて、領地を与えられたパルマに向かいました。
これはナポレオン派が皇后と皇太子を担いで蜂起することを防ぐための措置でしたが
彼女はそんなことには頓着せず、ナイペルク伯との愛に溺れていきました。

ナポレオンは1815年、エルバ島を脱出して一時皇帝に返り咲きました。
パリに入った彼は、マリー・ルイーズを呼び寄せますが
彼女は「二度とあの男に会いたくない」と固辞したそうです。

娘と息子が生まれた後、こっそりナイペルク伯と結婚してフランツ2世を激怒させますが
無理矢理ナポレオンに嫁がせた負い目もあって許されました。
1829年にナイペルク伯が亡くなると、メッテルニヒはボンベル伯を送り込みます。
またまた彼に夢中になったマリー・ルイーズは3度目の結婚をします。

勝手にやって来て居座られたパルマの人々は、彼女を「男好き」などと蔑んだようですが
そばに誰かいないとダメなタイプだったんじゃないかしら?
優しくされると好きになってしまうという少女恋愛体質のようにみえます。
あんまり深く考えるたちではなかったと言われていますし。

マリー・ルイーズはパルマの気候は気に入ったらしく
オーストリアにいる息子のナポレオン2世にもほとんど会いに行きませんでしたが
ドレスや芸術に関してはフランス贔屓で何もかもパリから取り寄せていたそうです。
結局パルマの地を離れることもなく1847年に肋膜炎で亡くなりました。

ちなみに、ナポレオン2世は父ナポレオンによってローマ王に即位させられましたが
1814年にマリー・ルイーズとオーストリアに避難した時から
国外に出ることが許されない身になりました。
これはマリー・ルイーズ同様、ナポレオンの残党に担がれないためでしたが
パルマに行ったきりでほとんど会いに来ない母を待ちこがれながら
1832年に21歳で病死しました。
さすがのマリー・ルイーズも(ギリギリでしたが)枕元にかけつけて
最期を看取ったということです。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』
      川島ルミ子氏『ナポレオンが選んだ3人の女』 Wikipedia英語版)

ハプスブルク家の女たち 講談社


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