「父の日」絡みということなんだろうか、この二日ほどにキヨシローの「パパの歌」などという歌がラジオから流れるのを何度か聞いた。そのたびに不愉快な気分になった。
家庭における父親はトドのように寝転がっているばかりでだらしないことこのうえないが、昼間の彼はちょっと違う、輝いているのだ、とかいう歌だ。
なんで輝いているかというと、会社へ行って仕事をしているからだという。いい汗をかいているという。昼間のパパは男だぜ、と賞賛してみせる。
本気でお前はそんなことを考えていたのか歌っていたのかと、呆れるくらいしか反応のしようのない歌だが、こんなものもキヨシロー信者にはありがたいものなのだろうか。
こんな具合に”まっとうな暮らし”を賛美してみせる俺って、渋いだろう、オトナだろうとキヨシローは自慢だったのだろうか。なに、歳をとって本当らしい嘘が自分にも他人にもつけるようになった、というだけの話じゃないのか。
日曜の深夜だ。海岸の遊歩道のあたりを散歩してみた。
昨夜までの、週末の観光地を彩ったネオンサインは、多くが点けられておらず、祭りのあとのうら寂しさを歌いながら夜風に吹かれている。もう観光客たちは街に帰ってしまったのだろう、スカスカの客室やマイクを握るもののいないカラオケを満たしている妙に寒々しい空気の感触が、夜の街角まで流れ出てきているように感じられる。
いつまで経っても現れない客を、それでも待つしかない客待ちのタクシーの列が夜の中、遊歩道の脇に続いている。
売れない演歌歌手の、何年も前に出た”新曲”のポスターが潮風に曝され、変色しかかっている。ポスターには、キャバレー回りの果てに、この街にいつのまにか居着いてしまった歌手自身による、手書きのスケジュール告知が貼り足してある。うら寂しい街ばかりを歌って歩いているんだよなあ。
なじみの飲み屋はどこももう、店をやめてしまった。空家となった店舗には、次なる借り手は現れないままのようだ。
かってそれらの店で、一緒に飲んで騒いだ友人たちもとうに街を去り、消息を知らせる便りもいつか絶えた。
毎度お馴染み、休日の終わりの哀感。明けて明日からはまた、きつい日常が続いて行くのだ。
遊歩道の向こう、ヨット・ハーバーのどこかで、悲しげな鳴き声のようなものが長い尾を引いて聞こえた。ような気がした。
海獣のものかと思ったが、ここは気楽にアザラシのタグイが訪れるような湾でもない。ヨットの持ち主が連れ込んだ飼い犬かなにかか。あるいは訳ある深酒で悪酔いした人間の呻きか。
暗いの水の広がりを眺めながら耳を澄ましていたが、それきり声は聞こえることはなかった。