ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ユエの流れ

2006-09-27 02:49:24 | アジア


 ふと「ユエの流れ」という曲を思い出し、ちょっと調べてみようなんて気を起こしたのだった。誰だったか、日本語盤シングルを出していたのだったよな。
 それは「流れは月にきらめき 憶いは波にゆらめく」そんな歌詞で歌いだされる優しいメロディの恋歌で、ベトナムの民謡だか歌謡曲だか、そんな風に紹介されていたと記憶する。

 ベトナム戦争真っ盛りの1960年代末の話である。そのような暴虐の振舞われている現実と裏腹の、ひそやかな恋歌がベトナムから伝えられる。当時、その歌が(稀ではあったが)ラジオから聞こえてくると、なんとなく”襟を正す”みたいな気分になったものだった。

 ”帰ってきた酔っ払い”の大ヒットを受けて、フォーククルセイダースがその次のシングルとして用意していたものの、発売の前日に発売禁止となった朝鮮民謡、”イムジン河”を思い起こさずにはいられない、アジアっぽい旋律が心を惹く一曲だった。
 いや実際、”イムジン河”の話題性を横から拝借、の意識がリリースしたレコード会社にあったとしても不思議ではなかった。

 ちょっと調べてみると、意外にもこの曲、”甲斐バンド”の甲斐よしひろがソロアルバムでカヴァーしているようで、その情報ばかりが引っかかって来てくさってしまったのだが。

 それでもオリジナル(?)の歌手名が”マリオ清藤”であることは分かった。彼の顔は”ユエの流れ”のジャケ写真で見たものを記憶している。もう若いとはいえない、また、二枚目とも言いがたい(失礼!)小太りの男がマイクに向かっていた。かけていた大振りのサングラスが東南アジアっぽさ(?)をそこはかとなく演出していた。
 そこまでだった。その名と彼の”ユエの流れ”が1968年発売であること、それ以上の情報はなかった。高く、柔らかな声質の歌手だったと記憶にはあるのだが。

 ”ユエ”というのは、ベトナムの古都フエを流れる香江(フオンジャン)なる河を指すようだ。

 1968年の”テト攻勢”でベトナム解放軍がフエを解放したあと、米軍が反撃、フエ再占領をした。米空軍次官のタウンゼント・フープスが、1968年3月のメモに米軍のフエ攻撃の結果を次のように記した。
 ”残されたのは廃墟と化した市街だった。建物の80%が瓦礫と化し、破壊されたあとの残骸の中に一般市民2000の遺体が横たわっていた。市民の4分の3が家を失い、略奪が横行した。米軍に支えられた南ベトナム共和国陸軍の兵隊たちが最悪の犯人だった”(1967年ベトナム戦犯国際法廷文書集へのノーム・チョムスキーによるまえがきより)

 ユエの街は、豊かな歴史を誇るベトナムを代表する古都のようだ。そこで遠い昔、月を写す川面のほとりで恋する人を待っていた娘の面影。歌は、こう結ばれている。”装い凝らして待てど あの人 来ない”と。
 そして時は流れ、戦の暴虐は人の想像力を超える勢いで振舞われ。そしてさらに時は流れ。もう爆弾の降ることのないユエの流れのほとりで、恋人たちは逢瀬を重ねているのだろうか。

 検索しているうち、須摩洋朔(すまようさく,1907年 - 2000年)なる人物の名が引っかかって来た。第二次大戦中、東南アジア方面で軍楽隊のメンバーとして転戦し、戦後はNHK交響楽団のトロンボーン奏者などを務めている。この人物が歌謡曲の作曲家である筒美恭平とともに”ユエの流れ”なる曲を作った、との記述に出会った。私の記憶している曲がそれであるかどうかも、とりあえず検索では明らかに出来なかったのだが。