私の家の駐車場の天井、そのど真ん中に毎年、ツバメが巣を作るようになったのはいつ頃からだろうか。私が免許を取って運転を始めた頃は、もうすでに見慣れた風景になっていた記憶がある。
連中は気をつけてみていると、どこの家の軒先でも、ともかく作るときはど真ん中に巣を作る。そのような場所を選ぶことによって受けるリスクなど、まるで考慮していないようだが、どのような本能が命じる行為なのか。
ともかく連中は毎年の初夏、ふと気がつくと駐車場の天井に巣を作っていて、出そうとした車のフロントガラスにウンコなどを無礼にも落としてきて、そして我々は季節の移ろいを知るのである。
ツバメの去来を歌ったメキシコ民謡、”ラ・ゴロンドリーナ”をはじめて聞いたのはサム・ペキンパー監督の映画”ワイルド・バンチ”の中でだった。砂漠の乾いた嵐と銃の硝煙と血の匂いに満ちたあの映画で、ひとときの楽園幻想と言った風情で描かれていたメキシコ人たちの村。そこから殺戮の現場へと旅立つガンマンたちを送る音楽として、”ラ・ゴロンドリーナ”は演奏されていた。
いかにもスペイン文化圏のイナカの民衆音楽と言った風情の、古い舞曲の優雅なリズムを伴なって。調律の怪しい金管楽器の、やや間の抜けた響きをバックに、その美しいメロディを、砂漠の只中の緑の村の村人たちは調子外れの声を張り上げて歌っていた。
もちろん、歌のタイトルなど映画の初見時に知りはしなかった。その後に別の用件で手に入れた、ナナ・ムスクーリのアルバムに入っていた、これはずいぶん小奇麗な演奏と歌唱になってしまった”ラ・ゴロンドリーナ”を聞き、おっとこれは、あの映画で使われていたあの曲ではないかと気がついた次第で。
それが、ふと飛来し、やがて飛び去るツバメになぞらえて、遠方へ旅立つ親しい人を送るために歌われるともその際に知り、なるほど、だから映画ではあの旅立ちのシーンに使われていたのだなと納得したのだった。
メキシコの、このジャンルのメロディは。いや、このジャンルと言っても意味が伝わるまいが、メキシコの大地が育んだメロディには、想い溢れて胸を切り裂きそうになってふと零れ落ちた、そんなタグイの切ない一滴が確かにある。(かって漫画家の永島慎司は、それを「奴らは孤独を楽しんでいやがる」と表現した)
地の底から芽を出し、やがて天高くへ果てしなく登って行く、そんな憧れがいっぱいに詰まったメロディ。
それらからは、去り行く人への惜別の思いというよりは、自分もまた一羽のツバメとなって地のくびきを離れてどこまでも飛んで行きたい、そのような願いをむしろ感じて仕方がないのだ。
夏の終わりのこの季節、我が駐車場のど真ん中にある日、乾いた土の塊が落ちているのを見る事がある。初夏にツバメたちが彼らの子を育んだ、その巣の名残が今ごろになって干からびて落ちて来るのである。
そしてまた来年、彼らは飛来し、同じ場所に巣を作る。代々、同じ家系(?)のツバメたちがやって来ているのか、そんな事はもちろん、こちらには分からないのだが。