ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

イージー・リスニングの黄昏

2006-09-29 03:47:34 | アンビエント、その他


  ”憂歌団”のギター弾きだった内田勘太郎が2002年に出したソロアルバム、”Chaki Sings”は、若干のダビングはあるものの、彼のギターのみで演奏された、「ひき潮」や「ムーン・リバー」や「夏の日の恋」など、かなりベタで、かつ時代遅れでもある”ムード音楽”の定番曲集となっている。

 ブルージーに迫る、まあ、この曲なら当たり前なのだが「我が心のジョージア」や、勘太郎がこのところ住み着いているという沖縄の音楽が取上げられていたり、といったフォローが入っているからいいようなものの、ブルースバンドたる憂歌団のファンだった者には「なんじゃこりゃ?」と首を傾げさせる設定のアルバムで、あるいは何かのアイロニーが含まれているのでは?ともかんぐる人もいるかも知れない。

 が、私は勘太郎自身の筆になるジャケ裏の解説文を読み、ははあ、彼も私と似たような幼時における音楽体験をしてきたんだなあと、ニヤニヤしてしまったのだ。そこで勘太郎は、ラジオからふと流れてきた”たくさんの楽器の音が響き合い滝のように流れたり夏の雲のように湧き上がったりする演奏”に別世界へ誘われる心地を味わったと、10歳にもならない頃の体験を語っていた。
 それはそのまま、”音楽ファンになる以前に聞えていて心惹かれていたが、惹かれていた事自体にさえ、まだ気がついていなかった音楽”に関する私の思い出を語るに十分な表現である。

 それらは、ストリングス主体のイージーリスニング・ミュージック、とでも定義すればいいのだろうか。”パーシー・フェイス楽団””フランク・チャックスフィールド楽団””カラベリときらめくストリングス””101ストリングス”なんて、それらを演奏していた楽団名も、記憶の片隅に転がっている。まあ、大甘なアレンジで往時のヒット曲を臆面もなく歌い上げる、安易な娯楽と言えばその通りの演奏である。

 そんなものが私の子供の頃は、市井で”軽音楽”として愛好されていたものだ。今日、その種の、町を流れる”とりあえずのBGM”の座は、アメリカ産のどぎついダンスミュージックに奪われて久しいのであるが。

 私にとっての、それらイージーリスニング・ミュージックの最古層の記憶は、母が針仕事などしている脇で鳴っていたラジオから流れていたものとして、である。

 その、過ぎ去った歳月によってぼやけかけた記憶の中で、商家だった私の家はいつも定休日である。店の照明が落とされた薄暗い家の中で母が針仕事をしていて、私は一人遊びに飽きて、手持ち無沙汰にラジオから流れるムードミュージックを聞いている。少年時代の内田勘太郎は、どのような環境で、あれらの音楽に別世界への扉が開くのを見ていたのか。

 もう少し成長してから、そう、あれはたぶん中学に入ったばかりの頃なのだろう、私は従兄弟が何かの祝い事の際に記念にくれたラジオを布団の中に持ち込んで、寝付けぬままにラジオの深夜放送を聴いていた。まだ、今日のように深夜のラジオが若者向けの番組一色に染められてしまう前の時代、夜はまだまだ大人の時間だった。森重久弥のトークエッセイの如きもの、女優によるお色気トーク”夜の囁き”といった番組、等々。

 当時、私が好んで聞いていたものの一つに、先に挙げたようなイージーリスニング・ミュージックにときおり詩の朗読などを挿入する構成の、”夢のハーモニー”なる番組があった。湧き上がる大編成のストリングスの響き。女性アナウンサーによって読み上げられる、やや浮世離れのした誌の一節一節。

 その時点でもすでにやや時代遅れ気味の雰囲気漂うその番組は、ずっと遠くの、もうとっくの昔に閉鎖になってしまった放送局が何十年も前に放送した番組が、どこかの時空のゆがみに閉じ込められていて、それを何かのきっかけで私のラジオが受信してしまった、そんな浮世離れの感触を孕んでいて、深夜の無聊の友としては、なかなかに味のあるものだった。

 この番組、そういえばいつ頃まで放送されていたのだろう。と言うより、私はいつ聞かなくなったのだろう、と言うべきか。受験生相手の騒がしい”ディスク・ジョッキー”が深夜のラジオを占拠し、私自身も乏しい小遣いを工面してローリング・ストーンズやアニマルズの新譜を買い、下手糞なギターを奏で始め、イージーリスニング・ミュージックのことなど忘れてしまうのは、計算してみると、遅くともその一年後くらいであった筈なのだ。

 押し寄せてきた騒がしい時代に慌しく踏みにじられ、いつの間にか喪われてしまった、やわらかな時間の記憶。思い出すよすがは、今でもスーパーのワゴンセールなどで490円とかで売られているムード音楽のCDであり、前述の勘太郎のソロアルバムだったりする。こんな音楽には、変な”再評価”の光など当たらないと思うが。もちろん、それで良いのであるが。