安易に、かつ、あんまりセンス良くも無く、2流の割にはお洒落ぶった流行り歌のアレンジに登用されているのなど聞くと、ボサノバなるリズム、日本人の感性の非力な部分に似合いの軟弱物件なのかなあと、わが若き日、思い切りウンザリさせられたものである。
おい、ドラマーよ!な~にをしたり顔で上品ぶってドラムのフチをコツコツ叩いているのだ。お前は何をやりたくて太鼓叩きになったのだ、軟弱者めが!などとボサノバの存在そのものにも、大いに因縁をつけさせてもらったものだ。
今、時を経て音楽ファンとしての経験も積み、かの音楽の奥深さ、恐ろしさなども、それなりに見えてきているつもりである。例えば今、目の前にある斯道の大家、ジョアン・ジルベルトのCD、これは日本編集なのかな、「ジョアン・ジルベルトの伝説」なる物件。
1950年代から始まって、デビュー当時のジルベルトのレコーディングを集めたものだが、なんとも玄妙というか、所詮、他民族には理解の叶わぬ深遠なる文化の所産なんだなと溜息をつかされるような作品が目白押しである。どれも、実に短い。ほとんどが2分足らずの演奏時間。絶妙なるギターとさりげない歌いぶり。
サラッと歌ってスッと退場するそのありようは、まるで俳句か何かの世界を髣髴とさせる。分かりやすい表現をしているように見せておきながら、勘所を掴もうとするとスルリと逃げていってしまう。
その一方で、私はジョアン・ジルベルトに関する、ある音楽ライターのこんな文章を読んだ事がある。あ、もちろん、日本の音楽ライターね。いわく、
「ヘッドホンを付けて、フル・ボリュームでジルベルトのギターを聴いてごらんよ。ボサノバ・ギターがレッド・ツェッペリンにも負けないほどのテンションを秘めている事が分かるだろう」
・・・。そんな不自然な実験をする気もないが、なんでボサノバに、ハード・ロック並みのテンションを求めなければならないのか。聴く音楽を間違えているだろう、それは。何もそこまで無理してまでボサノバを聴くこともあるまい。
やっぱりボサノバと日本人が関わると、恥ずかしい事になってしまうなあ、冒頭に述べた安易な流用も含めて。
異民族が洗練と退廃の果てに生み出した、言ってしまえば異形の音楽を、表面の口当たりの良さだけ拾ってきて都合の良いように使う。真髄を捉えたような顔をしたくなると、場違いな価値観を無理やりに当てはめてみたりする。もしかしてボサノバ、恥をかく結果になること必至なので、うっかり近付かない方が無事な代物と心得るべきかも知れない。まあ、この文章も含めて。