先に申し上げておきます。くれぐれも申し上げておきます。以下の文章はまったくのナンセンス・ジョークであり、一片の事実も含まれておりません。どうか、冗談の嫌いな人、前衛芸術の理解が不可能な方は、以下の文章にお目をお通しくださいませんよう、お願いいたします。
なお、文章の作成に当たっては、”フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』”を参照、ならびに引用させていただいております。
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「ウォーク・ザ・ライン 村多英雄の生涯」
1932年、
九州は博多に生まれる。一家は南部特有のシェア・クロッパー制度の元で綿花を育て生計を立てており、彼も幼い頃から兄とともに家族の農業の手伝いをしていた。その際に身に付けたフィールド・ハラーの影響濃い歌唱法は生涯、英雄の歌手としての貴重な財産となる。
1944年、
ラジオで流れる浪花節に憧れ、歌手になることを夢見ようになる。
1950年7月、
初めてギターを買い、独学で奏法を習得。曲作りも本格化する。まだ素人の身であるものの、英雄の歌うブギウギのリズムで強力にスイングする浪花節は、博多の人々のハウス・レント・パーティにおいて圧倒的な人気を博し、英雄は一躍町の人気者となった。
1955年3月、
サン・レコードからシングル「無法松の一生」を発売し、レコード・デビュー。ビルボード誌全米演歌チャート14位を記録するヒットに。
「無法松の一生」はハリウッドにおいても映画化され、招かれて主人公の”無法松”を演じた英雄は、米国において映画スターとしても人気を博するようになる。
同年12月、
シングル「人生劇場」を発売。全米演歌チャート4位の大ヒット。この頃のツアーで、3歳年下のエルヴィス・プレスリーとも出会っている。
1956年4月、
シングル「柔道一代」を発売。初の6週連続一位を獲得。ポップ・チャートでも20位にランクインし人気歌手の名を欲しいままにした。
1958年、
大手のコロムビア・レコードと契約。
1963年、
「皆の衆」が全米演歌チャート7週連続1位にランクイン。
1968年、
ドラッグを乗り越え再起。この年、各地の刑務所でのライヴとライヴ盤収録を企画。このアルバム「花と竜ツァー」は1月13日に録音され、同年6月に発売。演歌チャートに92週、ポップ・チャートに122週もランクしつづける大ヒットとなり、翌年には初のグラミー賞も受賞しシーンに返り咲く。
1970年4月、
当時のアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンに招かれ、ホワイトハウスで演奏。
2003年5月、糖尿病による合併症により他界。享年71。
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(冒頭に掲げた写真は、文章とは何も関係はありません)